>>392

食料や水、装備を積んだ私たちのバンへのルートはロシア軍の狙撃手が狙っていて、すでに外に出た救急隊員が撃たれていた。外の爆発音を聞きながら、暗闇の中で何時間も過ぎた。そのとき、ウクライナ語で叫びながら、兵士たちがやってきたのだ。

 救出隊には思えなかった。危険な場所から別の危険な場所に移されるように感じた。もはやマリウポリに安全な場所はなく、救いもなかった。いつ死ぬとも知れなかった。兵士らには驚くほどの感謝をおぼえたが、感覚を失ったようにも感じた。この場を去ることを恥ずかしく思った。

私たちは家族連れ3人とヒュンダイに乗り込み、市からの脱出を試みる車の全長5キロに及ぶ渋滞に乗り込んだ。この日、およそ3万人がマリウポリから脱出した。あまりに数が多かったので、ロシア軍兵士は、(記者らが乗っていたような)ばたつくプラスチックで窓が覆われた車の中をよくのぞき込む暇はなかったようだ。

 日が暮れたころ、ウクライナ軍がロシア軍の前進を阻止するため爆破した橋にたどり着いた。先着の赤十字車両約20台は進めなくなっていた。一緒に主道を外れ、野原を、裏道を進んだ。

 15番目の検問所に詰めていた兵士は荒っぽいコーカサスなまりのロシア語を話した。彼らは全ての車にヘッドライトを消すよう命じた。道路脇に置かれた武器や装備を見せたくなかったのだ。車両には白い「Z」が描かれているのがやっと見えた。16番目の検問所に着くと、声が聞こえた。ウクライナの声だ。ただ、ほっとした。前の席に座っている母親は激しく泣き出した。脱出できたのだ。

 私たちがマリウポリにいた最後のジャーナリストだった。記者はもう誰もいない。