1955年、前年に創設され、その一年目に8球団中6位の好成績をあげた高橋ユニオンズに、待望のスポンサーがついた。
 当時、宣伝に力を入れていたトンボ鉛筆で、チーム名もトンボユニオンズと改められ、ユニフォームの胸マークにもこの会社の商標であるトンボの絵がUNIONSの文字と共に登場した。

 トンボの商標は27(昭和2)年に制定され、創始者が重んじた「客に深く頭を垂れる商いの姿勢」を表すため、トンボが頭を下に向ける形で描かれていた。
 ところが2年目のユニオンズは開幕から連敗。当時の野球誌には「あの急降下しているトンボのマークを逆にしたら」なんて、商標の意味を無視した自棄っぱちな意見まで登場していた。そして浜崎真二監督も途中退陣。笠原和夫主将が代理監督に就任するが、最後まで勝率3割がやっとの最下位で、結果パ・リーグの勝率3割5分を割った球団は制裁金500万円の規約が適用され、トンボ鉛筆は制裁金を支払うハメになり、スポンサーを一年限りで降りてしまったのであった。

トンボは負けすぎて制裁金払ってて草