ぐう聖の末路


この事件において、二人に賛同したノーマンもまた、国内で批判にさらされる。
オーストラリアにおいては白豪主義思想が色濃く残っており、ノーマンの行為もまたメディアや同僚選手から公然と非難される。
その後、オリンピック代表にも選ばれることはなく、選手生命は事実上絶たれた。
その後、メルボルン市内に在住し、オーストラリア政府の公務員としてスポーツやレクリエーションに携わる部門に勤めた。
しかしメダリストとして大々的に取り上げられることはなかったので、それだけでは生計を立てられない程度の収入しか得られず、精肉店のアルバイトもすることで凌いでいた。
晩年は鬱やアルコール依存症、アキレス腱の怪我に悩まされ、2006年10月3日に死去。葬儀にはスミスとカーロスが参列し、棺側付添人を務めた。