>>279
犬飼は言われてるほど情けない感じでもないんよな

以下の犬飼の言動は、犬養の孫である道子の随筆に従った[注釈 4]。

1932年(昭和7年)5月15日は晴れた日曜日だった。犬養は総理公邸でくつろいでいた。この日、夫人は外出していた。

17時頃、護衛の巡査が走り込んできて暴漢侵入を告げ、逃げるよう促した。犬養が「逃げない、会おう」と応じたところに、海軍少尉服2人、陸軍士官候補生姿の3人からなる一団が乱入してきた。
襲撃犯の一人は犬養を発見すると即座にピストルの引き金を引いた。

しかし不発に終わり、その様子を見た犬養は「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう」と言い一団を日本間に案内した。
日本間に着くと、彼らに煙草を勧めてから、「靴でも脱げや、話を聞こう」と促した。そこへ後続の4名が日本間に乱入、「問答無用、撃て」の叫びとともに全員が発砲した。

女中のテルらが駆けつけると、犬養は顔面に被弾して鼻から血を流しながらも意識ははっきりしており、縋りつく女中に「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と命じた。

18時40分、医師団は「体に入った弾丸は3発、背中に4発目がこすれてできた傷がある」と発表した。見舞いに来た家人に犬養は「九つのうち三つしか当らんようじゃ兵隊の訓練はダメだ」と嘆いたという。
しかしその後は次第に衰弱し、23時26分に絶命した[19]。享年78(満76歳没)。