1994(平成6)年になると、オウムの攻撃はさらにエスカレートしていく。
5月9日、オウム信者のカウンセリング活動を行っていた滝本太郎弁護士が襲われる。
駐車場に止めてあった車のフロントガラスにサリンを流されたのだ。

ジャーナリストの江川さんが標的にされたのは、9月20日未明のことである。事件発生からしばらく時間がたったころ、江川さんが当時住んでいた横浜市内のマンションから電話をかけてきて、
「どうもオウムに襲われたみたいです。新聞受けからホースみたいなものを突っ込まれて、部屋に何か撒まかれたんです。白い煙がもうもうと出て、すごく目がちかちかして、喉が痛いんですよ」
廊下に面したドアの新聞受けから、毒ガスのホスゲンを撒まいたのだ。ドアノブがゆるんでいたことから、4人が侵入を試みたことも明らかになる。

1995(平成7)年1月1日、読売新聞の一面にスクープが躍った。上九一色村でサリンの残留物が検出されたというのだ。この“元旦スクープ”をきっかけに、警察もようやく重い腰を上げたのか、オウムに強制捜査に入るという情報が流れ始めた。
その直後の1月4日、私が連絡を取り合っていた「被害者の会」の永岡弘行会長が襲われる。
永岡さんは自宅マンションの駐車場で車のタイヤを交換し、昼食を済ませたあと、突然苦しみ出す。目の前が暗くてよく見えないと訴え、大量の汗をかいて、のけぞるように倒れ、救急車で大学病院へ運ばれた。脳幹梗塞という診断だったが、翌日の血液検査で有機リン中毒と判明する。信徒が、タイヤを交換している永岡さんの首の後ろから、注射器で猛毒のVXをかけたのだ。VXの毒性は、サリンの100倍だという。

先陣を切って批判キャンペーンを始めた『サンデー毎日』は、オウムの凄すさまじい攻撃を受けた。麻原自ら弟子を引き連れ、編集部に乗り込んだ。それでも連載が続くと、毎日新聞社に街宣車を横付けし、大音量で示威行動に出る。
毎日新聞の社屋に爆弾を仕掛けて吹き飛ばす計画を立て、実際に岡崎と早川が地下駐車場の下見まで実行していたことも、やがて明らかになる。

オウムの行動がほぼロシアや