1951年はチーム全体の勝利数32勝の半数を超える17勝(14敗)を記録し、オールスターゲームにも初出場する。

同年12月に新たに導入された統一契約書が印刷の遅れにより期限の12月15日までに当時帰郷していた長谷川の元に届かなかったため、石本監督は長谷川ら主力選手たちに取り急ぎ口頭で契約の意思を伝えていた。長谷川は郷里で出身地・愛知県に本拠地を置く名古屋ドラゴンズの選手たちと軟式野球を楽しんでいた際に「統一契約書が届いていない」と軽い気持ちで話す[5]。