2000年夏、何とも奇抜なプレースタイルの高校が甲子園を沸かせた。左投げ捕手の長嶺勇也、左投げ三塁手の金城佳晃、そして「ダンゴムシ打法」とも呼ばれた代打の切り札・比嘉忠志…。常識にとらわれない自由闊達な野球で多くの高校野球ファンの心をつかんだ、沖縄県代表・那覇高校野球部の誕生秘話に迫った。

「最初はファーストミットでやってました。当時すでに左打者も多かったので投げづらさはなかったけど、道具がなくて。甲子園までは右用のプロテクターを着けてたので、投げるほうの肩にパッドが入ってるのは困りましたね」(長嶺)

 投手として入部するも肩を痛め外野手に転向。しかし正捕手のリードに納得がいかず、小学校時代に捕手経験のあった長嶺は池村英樹監督に捕手転向を直訴した。毎年秋に行われる1年生大会で念願の捕手デビュー。県ベスト4に残り、正捕手の座を手にする。その1年生大会でケガ人が相次ぎ、補欠から三塁守備に就いたのが金城だった。

「監督から『何でもいいから好きなポジションやってみろ』と言われて、中学時代にすばしっこいからという理由で、ちょっとやってたこともあったので。サードじゃなかったらメンバーにも入れてなかった」

 ちなみに一塁手の高良は右投げ。ポジションを入れ替えようとは思わなかったのか。

「ファーストはバッティングがいい人というイメージがあって。最初は守備要員だったんです」(金城)

 そこから打撃を鍛え、2年夏の甲子園では5番。定位置をつかんだ。

 そんな後輩たちの頑張りにポジションを奪われてしまった者もいる。1学年上の比嘉だ。

「長嶺がキャッチャーになって、キャッチャーやってた高良がファーストに回って、ファーストの俺が追い出されたんです。小学校からずっとファーストしかやったことがなくて、気づいたら守るとこがなくなってた(笑い)。流れ的に代打になるしかないですよね」

 3年時、キャッチボールすら参加せず、ひたすら打撃練習に打ち込んでいた比嘉はある日、監督の知り合いから極端に前かがみのフォームを“伝授”される。

「最初はすごい抵抗ありましたよ。やりにくいし、ヒザは痛いし。でも球が見やすいし、何より飛距離が出たんですよね」

 こうして那覇高野球部が出来上がった。

 枠にとらわれない起用法には、それぞれの長所を生かす池村監督の考えがあった。代打要員、守備要員、代走要員と、比嘉に限らず一つの練習を極めさせ、沖縄大会決勝ではメンバー14人をつぎ込んだ総力戦で甲子園の切符をつかんだ。届いたファンレターの中には「手術を受ける勇気をもらった」と記されたものも。地元のスポーツセンターには左投げ用のミットやグラブが並んだという。

左投げサードとキャッチャーで甲子園出た那覇高校