イチローさん、松井さん、松坂さんを見て…ロッテの新外国人、タイロン・ゲレーロがコロンビアから日本にやってくるまで
文春野球コラム ペナントレース2022
梶原 紀章 2022/05/10

「野球は12歳ぐらいから始めたかな。元々は友達がやっていて、一緒に遊んだ。最初は一塁手や外野が中心。背が高かったからね」とゲレーロは振り返る。

16歳の時に野球の地域代表に選ばれ、島から船で20分のところにあるカルタヘナという都市で試合を行った。カルタヘナはカリブ海沿岸の湾岸都市で石畳の通りやスペイン植民地時代の建物が多数、残る都市だ。この試合でヒューストン・アストロズのアカデミーコーチの目に留まり、投手として野球を本格的にスタートすることになる。

「練習のため、毎日、島から通ったんだ。船で20分。そこからまたグラウンドまでは1時間以上。帰りの最終便は20時だったから、練習が遅くまであった時は大変だったなあ。島の別の街への船は22時まで出ているから、乗り遅れたらそれに乗って、そこから歩いて1時間以上で家に着く。そんな日々だった」とゲレーロは振り返る。

 そんな努力の日々もなかなか報われることはなかった。ストレートのスピードは120キロ台。当時、すでに2メートル近い長身だったが、背丈を生かす投球をすることが出来なかった。アストロズアカデミーを事実上のクビのような形で退団し、デビルレイズのアカデミーへ。今度はそこも退団し、パドレスのアカデミーへとメジャーのアカデミーを転々としながらプレーをした。

「メジャーのスカウトが見に来るトライアウトがあって、そこで合格するのが目的。でも、なかなか合格することは出来なかった」

 5回目のトライアウトで、どこからも声がかからなかった時点で野球を辞めようと思った。母にそのことを伝えると「まだ若いのだから自分の可能性を信じて頑張ってみなさい」と励まされた。母の後押しに支えられ、もう一度だけトライアウトを受けることを決意した。そして6回目の挑戦でパドレスの目に留まることになる。

「本当に母のおかげ。あの時の母の言葉がなければ、間違いなく野球はやっていない。そして今、ボクはここにいない。母はとても強い性格で父もなにも言えないぐらい」とゲレーロは感慨深げに振り返る。

2016年についにメジャーデビュー。メジャー3年間でセットアッパーとして113試合に登板。防御率は5.77でなかなか華麗なる結果は出すことは出来なかったがストレートは最速167キロを計測するなど、その才能は誰もが知るところとなった。そんな中、徐々に日本に興味を持つようになる。 

「イチローさん、松井秀喜さん、松坂大輔さんなどメジャーで活躍する日本人プレーヤーを沢山見て、すごく興味を持つようになった。素晴らしい日本人プレーヤーを見て、きっといい野球が日本にはあるのだろうと思ってチャンスがあれば行きたいと思ったんだ」

 ゲレーロはかくして2022年からマリーンズでプレーをすることになる。

「とても気にいっている。人が凄く優しいし、みんな目標をもって勤勉にプレーをしている。日本人は本当に礼儀正しいし、とても素晴らしい国。とてもリスペクトしている。あえて言うなら、ちょっと寒いのが嫌かなあ。ボクは暑いのが大好きだから」と笑う。

 ここまで支えてくれた母も日本での活躍を喜んでいるという。「日本でプレーをすると話をすると、とても喜んでいた。いつか呼びたいと思っている」。今でも毎日、電話で話をして、時には叱咤激励を受ける。異国でプレーをするゲレーロにとって母は心の支えだ。

 夢がある。ジャパニーズドリームを掴み、地元のティエラ・ボンバ島にて野球学校を運営することだ。

「野球を始めた時、ボクは一番へたくそだった。でも幸運なことに色々な人のアドバイスをもらい、支えてもらって今はこうやってマリーンズでプレーが出来ている。地元には才能あふれる子供たちが沢山いる。でも経済的な問題で野球を続けられない子も沢山いる。そんな子たちにチャンスを与えられたらといつも思っている。いつか、島に野球学校を設立して、そこから日本やアメリカのプロに選手を送り出したい」
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