更に有人月旅行を目指して大型宇宙船ソユーズや大型ロケットN-1の開発を進めるが、1966年、ガンの手術中に心臓停止し、死去。59歳没。国葬で送られ、赤の広場の壁にソ連の歴代要人と並んで葬られた。


コロリョフはその開発が高く評価され、レーニン勲章も授与されたが、宇宙開発技術者の身元を明かさないというソ連当局の方針によって、その死まで彼の名前が西側に伝わることはなかった。アメリカのヴェルナー・フォン・ブラウンと共に、米ソ宇宙開発競争の中心人物であった両者は一度たりとも対面したことはなかったばかりではなく、ブラウンがコロリョフの存在を知ったのは彼の死後であった[2]。