カン! と乾いた音がして、ボールが右中間へ飛んで行った。
お兄ちゃんがフルスイングした後、バットを捨てて一塁ベースを踏み、二塁まで走った。客席から大きな声援が飛ぶ。そばにいた女の子たちが「すごーい」と騒いだ。和香は腰を下ろした。
野球で活躍するようになってから、お兄ちゃんは和香だけのヒーローじゃなくなった。お兄ちゃんはチームの仲間にとって「頼れる男」で野球ファンにとっては「プロ入り期待の選手」、そして女子にとっての「憧れの人」だ。
お兄ちゃんの努力が認められていくほど、和香の中だけにあったお兄ちゃんの欠片がぼろぼろ表に引っ張り出されて遠い空に輝く星になる。和香は「私だけが知っていた」お兄ちゃんの成分をかき集めてもう一度自分の中に閉じ込めておきたい想いにかられながら、球場の影を見つめる。
お兄ちゃんを応援したい気持ち。私だけのお兄ちゃんでいてほしい願い。気持ちと願いは両立できない。同じくらい強い二つの感情の間で揺れて、試合観戦のたびに胸がちょっぴり苦しくなるけれど。
和香は、きゅっ、と軽く拳を握る。
「お兄ちゃん、がんばれ」
和香が試合途中でお兄ちゃんの応援を放り出したことは一度もない。
人気になってから近付いて来るようなミーハーな女の子たちと私は違う。和香は心の中でそう繰り返す。
あの子たちは知らない。お兄ちゃんが野球だけじゃなくて料理も上手なこと。得意料理はゴーヤチャンプルなこと。洗濯物をシワなく干せること。動物にはよくなつかれるけど、本人は猫アレルギーなこと。
(お兄ちゃんのかっこいい姿を誰より知っているのは、他の誰でもない、私よ)
胸の中でそう唱えると、溜飲が下がった。