8月17日、伊豆国修禅寺に幽閉される。『吾妻鏡』ではその後の範頼については不明だが、『保暦間記』『北條九代記』などによると誅殺されたという。ただし、誅殺されたと記す史料はいずれも範頼の失脚から100年以上経た14世紀以降のものであり、誅殺を直接裏付ける同時代の史料が無いことから、実際に死去した日付や死因については確実なものとは言えない。また、こうした死去を巡る史料の問題や子孫が御家人として残っていることから後述のような異説の背景になっている。