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この辺がヤバさのピークや


6歳のシーズンは、マイラーズカップでの始動を目指していた。しかしその頃は、坂路をこなすことができなくなっていた[201]。
1週間前はCコース、ウッドチップコースにて[201]。直前は、同じくCコースを目指したが、地下馬道で30分立ち往生している[202]。
続くヴィクトリアマイル直前は、Cコースを目指したが、またも立ち往生[203]。山田が促しても進もうとはしなかった。そこでCを諦めてBコース・ダートコースへ向かい、調教をこなしている[204]。
坂路断念して以降は、このように平地のコースで調教を行っていた。スイープトウショウは頭が良く、1度走ったコースを嫌がる傾向にあった[205]。翻って、初めて、久しぶりのコースならばスムーズに調教を開始することが可能だった。
それ以降、嫌がるたびにコースを変えて「E→D→C→B」などと巡る[206]。この頃は、鶴留に「どのコースで追うかが悩みの種[207]」「来週の追い切りが無事にやれるか分からない[201]」などと言わしめていた。

それから宝塚記念直前では、とうとう人間を拒否してしまう。
調教前に暴れて、調教に欠かせない鞍を着用できなかった[208]。暴れた挙句に転倒し、右後脚を打撲。調教以前の問題で宝塚記念を回避した[208]。
夏休みを経て秋は、京都大賞典を目指した。しばらくBコースを使って順調に調整されていた[209]。迎えたレース当週、直前の調教は万一に備えて水曜日に敢行。Cコース入場には成功した。
だがしかし、肝心の調教でまったく走らなかった[210][170]。ただそんな時のための翌木曜日、鶴留はとっておいた最終手段、緊急用のEコースを使用させた[210][170]。しかしそれでも駄目。
負けじと超最終手段、開き直って坂路に行かせたが、もれなく駄目だった[211]。