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語ってはならないとされる話の怪異。大正の初年の話、東京京橋の画博堂という書画屋の三階にて同好の志が集まり、持ち寄った怪談話を代わる代わる話し合う、という催しがよく行われていた。そしていつものように皆が集まっていたある日、その画博堂に見慣れない男がやってきて、自分にもぜひ話をさせてくれという。どんな話か問うと、田中河内介の話だという。
田中河内介は幕末の青侍で尊王攘夷派志士の一人であり、明治天皇の幼少時にはその教育係を受け持っていた人物でもある。幕末当時、薩摩藩の島津久光は藩内の尊王派を無視し、朝廷と幕府を合体させようとする公武合体運動を推進していた。尊王派であった有馬新七らはこれに不満を持ち、京都所司代酒井忠義を討つため、同士を集めて京都の寺田屋に集まっていた。そしてこの中に河内介もいた。
しかし尊王派の動きを察知した島津は彼らを説得するために刺客を寺田屋に差し向けた。だが尊王派は説得に応じようとせず、やがてそれぞれが対立し刀を使っての殺し合いの事態となり、その時下の階にいて騒動には加わっていなかった河内介が説得にあたり、尊王派は降伏するに至る。そして河内介とその息子は薩摩に引き取られることになって船で大坂を出発した。しかし彼はその船上で命を落とし、その死体は小豆島に漂着して同地の農民によって埋葬されたという。そしてその不可解な死から田中河内介は大久保利通の指図で抹殺されてしまったなどと言った噂も流布し、大久保が後に横死してしまったのはその祟りだといったような河内介の祟りにまつわる話も多く語られた。
この田中河内介の最期がいかなるものであったか、この男が話そうというのでその場にいた皆は身を乗り出して聞き耳を立てる。男はこの話をすればよくないことがあるというので今までどこでも話したことがなかったが、とうとうその話を知る人間も自分一人となってしまったし、それにこの文明開化の世の中で話せば悪いことがある、などということがあるはずもない、と前置きして話し始めるが、いよいよ本題というところまで来るといつの間にか話の始めに戻ってしまい、田中河内介の末路を知っている者は自分一人となってしまった、などと話し出す。そしてそのうちにさまざまな理由により座の人々がいなくなる中、男は延々と本題に入らない話を繰り返していたが、偶然周りに誰もいなくなったまま死んでしまっていた。それでとうとう彼は田中河内介の最期を話さずじまいだったという。

これ思い出した