吾妻鑑によると
梶原景時は1月19日の深夜に一族率いて出奔、20日午前8時頃に鎌倉殿に出奔が伝わる
時政・大江・三善の3人が協議して討伐を決定、三浦義村らが大将として派遣される
20日午後10時頃、駿河の清見関で在地の御家人が射的協議会後の宴会をしていると、西へ向かう集団を見つけ、夜更けに集団でうろつくのを怪しんで矢を打ち掛けて戦闘に発展する
景時息子の景茂が吉川友兼と一騎討ちになり相討ちになる
景時息子、景国・景宗・景則・景連が必死に矢を放って奮戦するが討死する
景時と息子景季・景高は山に登って抵抗するが、矢を射掛けられて討死する
駿河武士が駆けつけると3人の首は無く、郎党が持ち去って隠していたが見つけられ、鎌倉に送られた