中学時代、100人を超える部員間の競争を勝ち抜きレギュラーの座をつかんだ。元社会人選手の顧問に鍛えられた部は「負けたらただではおかない」という緊張感にあふれ、勝負へのこだわりをたたき込まれた。
広島国際学院から甲子園を目指した高校最後の夏、県大会で敗れた後、これまで足を向けなかった兵庫県西宮市の“聖地”を初めて訪れた。眼前に広がる緑の芝生を見た瞬間、全国の球児がこの場所を目指す理由が分かった気がした。

「甲子園に出ます」。都市対抗野球の広島県予選を最後にグラブを置き、下関国際の指導者となって宣言すると、返ってきたのは冷笑だった。下関国際野球部は創部以来公式戦2勝32敗で廃部寸前の県内最弱チームなのだ。
きつい練習に音を上げ部員が大量退部するゼロからのスタート。「公式戦1勝」から積み重ね、次第に実力を付けたチームは夏の県大会で8強、4強、準優勝と一段ずつ階段を上り、ついにあこがれの舞台にたどりついた。