親は子を幸せにしたいと願うかもしれない。しかし子はそれとは「無関係に」幸せになったり不幸になったりし、しかもそれを親が原因だと思う。そしてまあ、おまえが原因だといわれれば、たしかに親なんだから責めは一身に負うしかない。その関係こそが、ぼくが親と子の、あるいはより一般に加害者と被害者の「非対称性」と呼んでいるものです。親になるということは、その非対称性を受け入れることです。子どもをつくるとはそういうことです。つまり、考えてもわからないことについて、記憶と責任を引き受けるということです。あちこちでいっているように、ぼくは最近は親=加害者側から哲学を組み立てることに関心があります。「親」という言葉に反応して誤解も広がっていますが、それはべつに、みな子どもをつくるべきとかいった単純な主張ではない(というか、そんな主張をぼくがするわけがないと思うのだけど)。そうではなく、加害を恐れるなという主張です。人間は、子どもを作ろうと作らなかろうと、一定時間生きていればかならず親=加害者側に立たされることがある。それを恐れていてはなにもできない。