安倍ちゃんには聖人の血が流れてるのにどうして…


安倍寛
大政党の金権腐敗を糾弾するなど、清廉潔白な人格者として知られ、地元で「大津聖人」、「今松陰(昭和の吉田松陰)」などと呼ばれ人気が高かったという[9][20]。寛の長男である晋太郎と娘との結婚話が持ち上がった岸信介は「大津聖人の息子なら心配ない」と述べたという。

十五年戦争がはじまっても非戦・平和主義の立場を貫き、1938年(昭和13年)の第一次近衛声明に反対し[20]、1942年(昭和17年)の第21回総選挙(翼賛選挙)に際しても東條英機らの軍閥主義を鋭く批判、大政翼賛会の推薦を受けずに立候補するという不利な立場であったが、最下位ながらも2期連続となる当選を果たした[20]。議員在職中は三木武夫と共同で国政研究会を創設し、塩野季彦を囲む木曜会に参加して東条内閣退陣要求、戦争反対、戦争終結などを主張した[9]。