1924年、第1回センバツ大会で高松商は優勝した。その時の三塁手が志摩定一だった。だが、その年の冬、志摩は肺病のために亡くなる。「死んでも高松商の三塁は私が守る」が遺言だったとされる。
後年、試合前に始まったのが「志摩供養」である。だが、当時はナインが三塁ベースを囲み、主将が口に含んだ水を吹きかけるというもの。これは78年、高野連が「遅延行為」「宗教的」を理由に禁止を通達した
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