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1年夏、徳佐高校を11-1で破り、14年ぶりに1回戦を突破したが、2回戦でコールド負けをした。新チームは上級生2人に宮崎の学年が3人。新1年生が入ってくるまでは5人だけで練習を繰り返す。それは部の存続すらも危ぶまれる状況。寂しく、心細いものだった。

しかし社会人野球チームにて投手経験を持ち、高校球児の指導に燃える坂原監督は生徒たちを励まし、前を向かせた。「弱者が強者に勝つ。ピンチはチャンス。だから人生は面白いんだ」。それが監督の口癖だった。
いつも生徒たちに熱く語りかけた。野球エリートを集めた名門チームとは違い、設備もなければ、野球ボールも数えるくらいで、部員も野球をするのが精いっぱいのチーム。その中でいかに勝つかを考えて練習を繰り返した。

2年夏にベスト8進出。3年夏はベスト16止まりも、1年生の時には120キロしか計測していなかったストレートが3年次には138キロまでアップしていた。

プロ入りした時からグラブには「坂原」という文字を刺しゅうで入れている。野球の世界に入れてもらった恩人の事をいつまでも忘れないために。
そして、いつも自分にとっての野球の原点を忘れないようにしたいとの思いからだ。