坂原秀尚監督就任以前の記録が野球部の部室にある。それによると、創部以降、夏の県大会初戦を勝ち上がったのはたったの2回しかない。
弱い野球部には熱心なファンもおらず、下関国際の台頭を望む人は少なかった。当時の練習試合を新谷有介は以下のように振り返った。

「どことしてもみんな格上で勝つことも容易じゃなかったです。負けて雰囲気が悪いというか、負けしか知らない。
日々坂原監督に言われ続けてきたことが試合の中でできたかどうかを振り返ってまた学校で練習するだけでした」

部員たちは坂原監督がいろいろな高校へ電話をして練習相手を探していることは知っていた。
勝てなくても1回1回の練習試合がとても貴重な機会であることは共通認識だった。

そんな中で、坂原監督就任当時から熱心に話を聞いてくれる指導者がいた。県立南陽工業野球部の山崎康浩監督だ。
監督として春夏通算4度の甲子園出場を果たした、山口県が誇る名将である。坂原監督は多くのことを山崎監督から学んだ。