もともと元ロッテ宮崎の記事が発掘されてレジェポ爆上げしてたやろ
https://www.baseballchannel.jp/npb/9913/
 ルーキーの宮崎敦次投手はロッテ浦和球場での二軍戦の試合後、トレーナー室で治療を受けながら懐かしそうに当時を振り返った。
下関国際高校に入学した4月のこと。中学校までは軟式野球の補欠一塁手。だから高校で野球を続けようという意志はまったくなかった。
特に部活動に入るという思いも湧いてこない。学校の授業を終え、自宅に帰宅すると1本の電話がかかっていた。
「あの電話がなかったら、今の自分はない。本当に縁というか運命です。今もその感謝の気持ちは忘れません」
 高校野球部の坂原秀尚監督からだった。当時の野球部は3年生8人、2年生が2人。新入生が入るこの時期に監督は必死に勧誘をしていた。
とりあえず、新入生男子で中学までに野球経験のある生徒に、片っ端から電話を入れているとのことだった。
その熱心な誘いに心を動かされた宮崎は軽い気持ちでグラウンドに見学にいった。
 投手をしたことがなかったが、とりあえずブルペンで投げさせられた。
「今までなにをしていたんだ?いい球じゃないか!」。その一言に気持ちを乗せられた。
同級生も3人。試合に出る機会も多かった。中学時代までは補欠しか経験したことがなかっただけに、とにかく毎日が楽しかった。
 1年夏、徳佐高校を11-1で破り、12年ぶりに一回戦を突破したが、二回戦では山口高校0-11でコールド負けをした。
「あの時に意識を変えた。野球をただ楽しんでやっているだけでは駄目だと。
上級生が泣いている姿を見てそう思いました。自分の甘さを反省し、必死に全力で野球と向き合って、取り組んでいかないといけないと思った」
 新チームは上級生2人に宮崎の学年が3人。部の存続が危ぶまれる状況だった。新1年生が入ってくるまでは5人だけで練習を繰り返す。
それは寂しく、心細かいものだった。しかし社会人野球チーム・ワイテックにて投手経験をもち、高校球児の指導に燃える坂原監督は生徒たちを励まし、前を向かせた。
「弱者が強者に勝つ。だから人生は面白いんだ」。それが監督の口癖だった。いつも生徒たちに熱く語りかけていた。
 野球エリートを集めた名門チームとは違い、設備もなければ、野球ボールも数えるくらいで、部員も野球をするのが精一杯のチーム。
その中でいかに勝つかを考えて練習を繰り返した。投手としての練習も投げ込みというよりは走り込み中心。
30キロ以上の土のうを背負ってのスクワットなど地道なトレーニングで下半身を強化していった。
 監督からは体が小さいことから、現ソフトバンク監督の工藤公康氏の現役時代のフォームを参考にするように勧められた。
2年夏にベスト8進出。3年夏はベスト16止まりも、1年生の時には110キロしか計測していなかったストレートが3年時には138キロまでアップしていた。
「本当に自分は高校から野球を始めたようなものです。一から教えてもらった。自分でも毎日、成長しているのがわかった。それはやりがいがあった」
 宮崎が巣立った後、坂原監督の熱意は徐々に実を結びだしている。部員も飛躍的に増えて行った。
広島国際学院大学に進学した宮崎も、大学リーグの最優秀選手賞を受賞し、スカウトに注目される存在となった。
マリーンズに指名された時、一番に報告をしたのは坂原監督だった。
「マジか!まさかプロ野球選手が先に出るとはね。次は甲子園初出場だ!」。熱血監督はそう言って喜んでくれた。
 プロ入り直前の12月。プロ用のグラブを作ることにした。メーカーからは刺繍でなにか文字を入れたらどうかと勧められた。
いろいろと考えたが、結局、「坂原」と入れてもらった。
自分を野球の世界に入れてもらった恩人のことをいつまでも忘れないために。
そして野球と人生のイロハを教えてくれた恩師の名前をそこに明記することで、いつも原点を忘れないようにしたいとの思いからだ。