ロシア、呉だった


翌天紀4年(280年)、呉軍が各地で敗北を重ねる中、陶濬は武昌より建業へと帰還し、孫晧に謁見した。陶濬は「益州方面から侵攻してきた晋の船は小さいものばかりであり、大船と2万の兵があれば撃退可能です」と上奏して許され、節と鉞を与えられた。陶濬が敗残の軍を一つにまとめて晋軍を迎え撃とうとしたが、一夜のうちに兵が怯え逃げてしまった。この一件で孫晧は完全に戦意を喪失し、降伏する事となった[4]。