野田の監督

3年目の1976年にはシーズン前半に故障欠場し、西沢正次にポジションを譲る。シーズン終盤には復帰するが、「クラウンライターライオンズ」となった1977年以降は若菜嘉晴の台頭や奥宮種男の加入もあって段々と出番が減り、打力、走力を生かして外野を守ることも少なくなかった。