承元3年(1209年)、義盛は上総国司の職を内々に望む。将軍実朝はこれを聞き入れようとし政子と相談するが、頼朝の頃より御家人が受領となることは停止されていることを理由に拒絶された。

実際には「頼朝の例」は後白河院との対立による特殊なケースであり、実朝の頃には平賀朝雅や八田知家のように、御家人が受領となる例は既に存在していたため、これは政子による義盛への牽制、あるいは嫌がらせであった[1]。

建暦3年(1213年)、信濃源氏の泉親衡が頼家の遺児千寿を将軍に擁立して北条氏を打倒する陰謀が発覚した(泉親衡の乱)。2月、義盛が上総国伊北荘に下っている最中に、鎌倉では事件に関係したとして義盛の子の義直・義重、甥の胤長が逮捕された。

3月、義盛は鎌倉へ戻って実朝に子や甥の赦免を願い出て、子は許されるが、甥の胤長のみは張本人であるとして許されなかった。助命嘆願に訪れた和田一族90人が控える将軍御所の南庭で胤長は縄で縛られて引き立てられ、和田一族に大きな恥辱を与えた。

17日(9日)、胤長は陸奥国岩瀬郡への流罪と決まる。21日(13日)、6歳になる胤長の娘が悲しみのあまり病になり、息を引き取った。和田一族は胤長の処分を決めた執権北条義時を深く恨んだ。

罪人となった胤長の鎌倉の屋敷は没収されることになり、25日(17日)、義盛は罪人の屋敷は一族の者に下げ渡されるのが慣例であると将軍に乞い、これは許され、義盛は久野谷彌次郎を代官として屋敷に置いた。

罪人となった胤長の鎌倉の屋敷は没収されることになり、25日(17日)、義盛は罪人の屋敷は一族の者に下げ渡されるのが慣例であると将軍に乞い、これは許され、義盛は久野谷彌次郎を代官として屋敷に置いた。

ところが、4月2日(24日)になり突然、義時は旧胤長屋敷を泉親衡の乱平定に功績のあった金窪行親・安東忠家に与えると決め、義盛の代官を追い出した。重ね重ねの義時の挑発に義盛は挙兵を決断する。

挙兵に際して最も頼りにしたのが、本家に当たる三浦氏の当主・義村であった。義村は挙兵への同心を約束し、起請文まで書いた。だが、義村は弟の胤義と相談して、変心して義盛謀反を義時に通報する。

5月2日、義盛は一族と共に挙兵。鎌倉で激しい市街戦が展開された。武勇で知られる和田一族は奮戦し、中でも三男の朝比奈義秀は最もめざましく戦った。
和田方が意外な大軍になりつつあるのを恐れた義時と大江広元は将軍実朝の名で御教書を発する。これに多くの御家人が応じ、実朝の命を受けた幕府軍は大軍となって押し返した。
夕刻までに和田一族は次々と討たれ、そのうち愛息義直も討ち死にし、老いた義盛は声をあげて悲嘆号泣した。そこへ江戸義範の郎党が襲いかかり、遂に討ち取られた。享年67。

事件の発端となった泉親衡の陰謀事件の逮捕者のうち、和田一族以外は直後に釈放されており、北条義時の挑発による事件であったとも言われる[1]。


やっぱ義時って糞だわ