不作といわれた昭和59年11月のドラフト会議の目玉は、
明治大学のスラッガー・広澤克己とエースの竹田光訓であり、高校生では水戸商業の大久保博元だった。
特に将来性を見れば、前年の58年のドラフト会議で1位指名されて中日入りした藤王康晴よりも大久保は評価が高かった。
各球団のスカウトたちは、あの手この手で大久保母子に接近してきた。
しかし、中には大洋のスカウトの重松省三のように、「大久保君の素質は認めるけど、片親のため人間的にはどうかな・・・」
と、つい口をすべらし、大久保から顰蹙をかう者もいた。
また阪神のスカウトの田丸仁は、スローイングが悪い、足の使い方が足りないなどと、コーチ並みに教えることに熱中しすぎて嫌がられてしまった。

>大洋のスカウトの重松省三のように、「大久保君の素質は認めるけど、片親のため人間的にはどうかな・・・」