旅団の二面性自体はヨークシンでも話の軸として描かれてたから分かるんやけど
クロロの説いてる「残すべきは頭より蜘蛛という組織全体」理論が描写として浅すぎるよな
フィンクスフェイタンがもっと冷徹であるべきだったのかもしれん