一般的に浅薄さはすぐ廃れ、軽佻浮薄はすぐ萎む。流行と言うものは薄っぺらだからこそ普及し、薄っぺらだからこそすぐ消えてしまう。
それは確かにそうだ。しかし一度廃れてしまった後に思い出の中に美しく残るのはむしろ浅薄な事物で有ります。
鹿鳴館の風俗は当時の浅薄な外交文化の猿真似に過ぎませんでしたが、今日では明治時代の重厚なる征韓論なんかより浅薄な鹿鳴館風俗の方が美しい過去として残っている。
しゃっちょこばったものや重厚なものは、一見流行ほどはやり廃りが無いように見えるが本当の所は流行より短命なのかもしれない。
浅薄な流行は一度素早く死んだ後に今度は別の姿で蘇る。軽佻浮薄というものには、何か不思議な猫のような生命力があるのです。
流行の生命の秘密は正にここに潜むとも言えましょう。

流行は無邪気な程良く、「考えない」流行程本当の流行なのです。白痴的、痴呆的流行程、後になって美しい色彩と成って残るのである。
歌舞伎の助六の美しい舞台を見た人はあれが当時の最もモダンな風俗や流行り言葉の集大成であったことを不思議に思うかも知れません。

どうでもいいことは流行に従うべきで、流行とは、「どうでもいいものだ」ともいえましょう。

お役人などという頭の固い人種は、灰色の建物の中で、時代おくれの服を着ている人たちですから、
流行に従う知恵を知りません。学校の先生という人種も、従っているのは学校教育関係の流行にだけであって、
ひろい世間の安全無害な浅薄な流行とはついに無縁に一生をおわる、気の毒な人種であります。哀れむべし。

流行に従わない人は「どうでもいいことにも一々流行に反抗しているから、大事なエネルギーをみんなこれに使ってしまい、
却って時代時代の現象に引きずりまわされる結果になって、本当に自分のために使うエネルギーを失くしてしまうのです。

三島由紀夫「不道徳教育講座」