昭和の現役ドラフトで柿沢爆弾踏んだ球団あるからな


対象となるのは、各球団の支配下選手(練習生も含む)の20パーセントで、60人なら12人(端数は四捨五入)のリストをコミッショナー提出。各球団は事務局が作成した選手名簿をもとにウエーバー順で指名を行い、1巡目はその選手の年俸プラス200万円、2巡目はプラス100万円(3巡目以降は不要)のトレードマネーが派生するルールだった。

「現役ドラフト」の「各球団2人以上」に比べて、人数が5倍以上と多く、毎年130人を超える選手がリストアップされたが、結果から先に言うと、これほどの人数の選手が対象になったにもかかわらず、肝心のトレードは毎年低調で、会議はわずか3年で終わりを告げている。

 70年の第1回では、トレードマネーがネックとなり、全球団が「最高でも100万円以下にしなければ」と1巡目指名を回避。2巡目になって、ようやく大洋が「ふつうのトレードだと、もっとトレードマネーを支払わなければならない」(別当薫監督)という消極的な理由で、阪神の8年目右腕・鏑木悦純を指名した。

 そして、トレードマネーがかからない3巡目で7球団、4巡目で6球団が指名を行い、計14選手が指名された。14人中、1軍で名の通っていた選手は、高山忠克(ヤクルト→阪神)、小泉恒美(南海→中日)ぐらいで、ほとんどが2軍クラスだった。

 国鉄時代の64年に18本塁打を記録した高山は、70年は61試合出場の打率.131、0本塁打に終わっていたが、阪神・村山実監督が「ウチはよく打たれた記憶があるので拾い物です」と新天地での再生を期待した。

 だが、高山は翌71年のシーズン中、ギャンブルによる多額の借金が原因で失踪し、無期限失格選手になる。実績十分の1軍選手がリストアップされたのは、“わけあり”だったようだ。る。実績十分の1軍選手がリストアップされたのは、“わけあり”だったようだ。