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ロブレンも悲惨な過去やし悲しい世代なんや


「真実を誰も知らないんだ。それは何事もなく起きた。そして、人々を変えてしまった。当時はサイレンがずっと鳴り響いていたことを覚えているよ。僕は爆弾が降ってくるんじゃないかと思って、怯えていた」

「ある時、母が僕を地下に連れてってくれた。どれくらい座っていたかは思い出せない。とにかくサイレンが鳴りやむのを待ったんだ」

 その後、戦火から離れるため、両親と叔父家族らと共にドイツへと逃げたというロブレンは、「叔父の兄弟はナイフで刺されて死んだ。そして、僕の友人は泣いていたから理由を聞いたら、『お父さんが戦死した』って……。それが僕の父だった可能性だってあったんだ」と悲痛な表情で語った。

 さらに「母は毎日のように泣いていた。僕は『母さん、もう終わったんだ。泣かないで!』と言っていたけど、彼女にとってどれだけハードなことだったのかを全く理解していなかった……」とも明かした。

 1995年に紛争が終結した後にドイツ当局からバルカン半島へと戻されたロブレンと家族たちは、クロアチアに移住。しかし、クロアチア語を喋れないことで多くの苦労をしたという。

 ロブレンは、「母はパートで生計を立て、父は画家としてやりくりしていた。けど、生活は楽じゃなかった。日々の食事もギリギリで、1週間の電気代も払えなかった」と、困窮した当時の生活を語った。

 とくに学校生活で、言語の壁からイジメを受けたというロブレンは、「読み書きができないし、全てのアクセントも違うから、みんなが僕に『どうしてお前は喋り方が変なんだ』と言ってきた。笑われるのが嫌で、よく喧嘩をしていたよ」と、簡単ではない日々を振り返った。

 しかし、そんなロブレンの救いとなったのが、サッカーだったという。

「彼らが僕のことで唯一、笑わなかったのがサッカーだった。僕はこれが彼らからリスペクトを受けるための術だと思った。僕はサッカーに夢中になり、そのために生きていた」