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FC ディナモキエフ
1941年、ナチス・ドイツの侵攻によりキエフはドイツの占領下に入り国内リーグは中断された。ディナモ・キエフの選手達も他の市民同様に強制労働に従事する事となったが、選手達は休憩時間に工場の空地で草サッカーに興じていた。そして、この話を聞いたドイツ側の提案によって、枢軸国軍側の幾つかのサッカークラブとの対戦が行われる事になった。
1942年7月に数試合を戦い、勝利を収めるとキエフ市民の評判を呼んだが、これを快く思わないドイツ軍は8月に強豪のドイツ空軍クラブとの対戦を申し入れた。当時のウクライナはナチス・ドイツの占領下にあり、ウクライナの人々は強制収容所に移送される恐怖や餓えの中暮らしていた。そのような状況の中試合前、ディナモ・キエフの選手はドイツ空軍を破ったら殺すと警告されていた。しかしプライドを捨てる事の出来なかった彼らは5-1で勝利を収めた。面目を潰されたドイツ軍は再試合を申し入れたが5-3でディナモが勝利し2連勝に終わった。
その後、選手達はゲシュタポによって逮捕。バビ・ヤールの強制収容所へ移送され、多くの選手達が処刑された。このエピソードは後に「死の試合(ウクライナ語版、ドイツ語版、ロシア語版、英語版)」(ウクライナ語: Матч смерті 英語: The Death Match ザ・デス・マッチ)として広く人々に知られる様になり、1979年の漫画『実録サッカー戦士』(小林辰禎著。月刊コロコロコミック1979年11月号掲載。熱血!!コロコロ伝説 テーマ別アンソロジー 第2弾 驚愕!! トラウマまんが傑作選収録)、1981年に公開された映画「勝利への脱出」のモデルともなった。