http://blog.livedoor.jp/philosophy_aqua/archives/30432215.html
サンデルは、学歴差別は最後の差別と書いています。

なぜ、人種差別はしてはいけないのに、学歴差別は平然と行われているのでしょうか?

1990年頃から筆者の周りの大学生が、「成功は自分が努力した結果」だという考え方をするようになったと言います。
しかし、受験勉強に専念できる環境にあるのは、努力より運なのではないでしょうか?
(例えばネグレクトや家庭内暴力を受けているような子と、お金持ちで塾や家庭教師をつけてもらえる子の環境の違いは運でしかない)

いいや違う、私は厳しい環境の中、自分の努力若しくは才能で大学に合格したという人もいるでしょう。しかしその『才能』(努力できる才能も含む)も、自分が偶然持っていた特性ではないでしょうか。
機会を平等にしたとしても、偶然受験勉強に有利な才能を持っていない人は、這い上がることができないのです。

サンデルは、
受験をテストにするくらいなら「くじ引き」で合否を決めた方がマシだ、と言っています。
くじ引きなら、高校生達が受験戦争で心を痛めないだけマシである、という事です。
(スタンフォードは実際にくじ引きで合否を決めようとした事があったらしいですが反対にあい頓挫したそうです)

出身大学によってその後の人生が決まってしまう事は、
合格者にも、不合格者にも、良い影響は無いのです。

合格者は、熾烈な競争を勝ち抜いた事によって合格は自分の手柄と思い込み、
「自分で勝ち取ったのだからエリートの席は当然」と、エリート以外を見下すようになります。
家が裕福で、一見順風満帆に見えるティーンエイジャー達の多くは、受験競争によって、不機嫌で、孤独で、憂鬱で、不安を抱えています。
不合格者もまた、「自分には努力が足りなかった」「才能が足りなかった」自己責任だと思い込み心に傷を負うのです。