「バチカン・クーデター」の裏舞台]

 オプス・デイがニクソン政権時代にチリのピノチェットによるクーデターと軍事独裁政権誕生に大きな役目を果たしたことは第4部 に書いたとおりだが、その後の1978年に、バチカンで大変な騒動が巻き起こっていた。第2バチカン公会議決定事項の熱心な推進者パウロ6世が死去したあと、教皇に就任したヨハネ・パウロ1世はわずか1ヶ月で暗殺と思われる謎の死を遂げる。そしてその跡を継いだのが、バチカンの周辺がほとんど誰一人予想しなかったポーランド人カロル・ヴォイティーワ(ヨハネ・パウロ2世)だったのだ。

 この教皇がオプス・デイの操り人形だったことは今まで何度も強調してきたが、ヨハネ・パウロ2世誕生の裏にはその他に、教皇の個人秘書としてバチカンで絶大な権力を誇ったスタニスラフ・ジーヴィッツ、フィラデルフィアの枢機卿で米国政界に影響力の大きいジョン・クロール、そしてカーター政権の安全保障担当補佐官ズビグニュー・ブレジンスキーという、3人のポーランド出身者の連携があったのである。特に世界を「チェス板」として眺めるユダヤ人ブレジンスキーの関与は重大な意味を持つ。

 私は、このヨハネ・パウロ1世の死(暗殺)とヨハネ・パウロ2世長期政権の発足は、やはりユダヤ人のヘンリー・キッシンジャーが画策したチリの軍事政権誕生と同様、計画的なクーデターに他ならない、と考える。

 そしてこのときのコンクラーベでヴォイティーワを強力に推薦したのが「キング・メーカ」の異名をとるウイーンの枢機卿フランツ・ケーニッヒである。彼はエスクリバーの盟友の一人であり、また社会主義者でユダヤ人のオーストリア首相ブルーノ・クライスキーと密接な関係にあった。