秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねると、
家臣達は徳川家康や前田利家の名前を挙げたが、
秀吉は黒田官兵衛(孝高)を挙げ、
「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るであろう」と言った。
側近は「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませぬが」と聞き返したところ、
秀吉は「お前達は奴の真の力量を分かっていない。
奴に100万石を与えたならば途端に天下を奪ってしまう」と言った。
これを伝え聞いた官兵衛は、「我家の禍なり」と直ちに剃髪し如水と号したとしている。
また、「秀吉、常に世に怖しきものは徳川と黒田なり。
然れども、徳川は温和なる人なり。
黒田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなりと言はれしとぞ」とも書いている。
文禄5年(1596年)の慶長伏見地震の際、
如水は蟄居中の身でありながら倒壊した伏見城に駆けつけたが、
秀吉は同じく蟄居中の加藤清正の場合には賞賛して警護を許したのに対し、
如水に対しては「わしが死なず残念であったろう」と厳しい言葉をかけたと言われている。

だが、「おまえは弟の小一郎(豊臣秀長)と同じように心安く思っている」
と書かれた天正5年7月付の孝高宛の秀吉自筆の書状など、
資料として仲違いを示すようなものがあるわけではない。