彼は難関大学である大阪大学の院生であり、伏見中学の生徒会長[17]、さらに奈良県トップクラスの進学校として知られる県立奈良高校の地学部長[18]を務めたほか、大阪大学に現役で合格するなど優等生ぶりを見せた。

大学では大学院での研究の傍らで行った自身の専攻と興味を持つ天文学を融合させた自主研究により学部3年生ながら文部科学大臣賞を受賞[19]した秀才だったのである。