前回の除名議員の言動かなりおもろい

当初は院内会派の緑風会に所属していたが、9月には脱会して無所属扱いとされ、
日常生活問題に関した大量の質問主意書を内閣に提出して話題をさらった。
その一方で議員会館を自らが経営する製薬会社の商談や宣伝に使用したり、
議員資格を使って統制下に置かれていた砂糖の横領や不正取得に関わるなど、その議員活動には批判も多かった。
1950年(昭和25年)4月3日、参議院本会議の予算案審議において小川は議長から許可を得て反対討論に立ったものの、
冗漫で意味不明な発言内容を野次られた挙句、実際の採決では賛成票を投じた。
この背信的日和見行為に対して国会内外で批判が高まり[注 2]、
任期満了まで1ヶ月を残す4月7日に、参議院本会議において賛成118票、反対10票[注 3]をもって議員を除名された。


1951年(昭和26年)1月27日に衆議院の代表質問を行い[1]、
当時行われていた朝鮮戦争(結果的にはGHQ)や吉田茂内閣の単独講和論を非難した際、
革命を賞賛して議会政治を否認するとも受け取られる発言が含まれていたとされ、
同年3月26日に懲罰委員会にかけられて本会議での陳謝を命じられたが、
川上は用意された陳謝文の朗読を拒否したため、3月29日に衆議院本会議で賛成239、反対71となり除名処分となった[2]。