1982年、オーストラリアから帰国した21歳の僕は、大井競馬場の調教師だった父・和人の厩舎を手伝いながら、中央競馬(JRA)に身を移す時期を待っていた。
 3回目の受験で競馬学校厩務員課程の試験に合格。「ほぼ満点」のはずの筆記試験がメーンとなる1次で落ちたことはなかったが、面接と運動能力検査がある2次が僕には鬼門だった。とはいえ、大井で毎日のように調教騎乗をしていた僕が、運動能力検査で引っ掛かるとは思えない。合格できない理由は“それ以外”にあったと考えるのが妥当なところだ。
 もっとも、当時の僕は「大人の事情があるのだろうな」くらいにしか考えていなかった。1次試験の結果が常に完璧でさえあれば、いつかは受かる――。腐ることは一度もなかった。親父との約束は「JRAで働く」こと。僕が競馬で生きていく道はこの場所にしかない。腐る理由などなかったのだ。

何があかんかったんやろ