英BBCに「プレデター(捕食者)」と名指しされたジャニー喜多川による性加害ドキュメンタリーの最大の衝撃は、その内容のほとんどを日本の私たちの大半がすでに知っていたという点だ。多くは「噂」の形ながら「常識だよ」という、ほぼ断言形の訳知り顔とともに。

古くは北公次の暴露本や田原俊彦の寮浴室裸体写真の写真誌掲載、99年の週刊文春キャンペーン等々、「噂」はここ数十年にわたって一定周期で蒸し返されてきたが、いずれも単一(に近い)媒体の散発的な告発の域を出なかった。

つまり「常識だよ」という物言いは、知っていてそれを許してきた、あるいは許さざるを得なかった日本社会のなんらかの事情が在るということになる。

疑惑が事実だとしたら、なぜそれはカトリック教会の少年たちへの性的虐待、あるいはハリウッドの大物プロデューサー、ワインスティンの性的搾取からの#MeToo運動のようには糾弾されないのか。