>>231
逃げてきたんちゃうぞ


1928年、ヨシフ・スターリンの社会主義民族政策により、アムール川沿岸の中ソ国境地帯にユダヤ民族区が設置され、
西ウクライナから西ベラルーシ(ベラルーシ語版)にまたがるルテニア(ウクライナ語版)[2]と呼ばれた地域
(カルパティア・ルテニア(カルパト・ウクライナ)・ガリツィア(ガリツィア・ロドメリア王国)・モルダヴィア・ベッサラビアなどの各地域)
にあったユダヤ人コミュニティ(シュテットル)から多数のユダヤ人が移住した。社会主義的な枠組みのなかでユダヤ人の
文化的自治をめざすもので、イディッシュ語の学校や新聞が作られた。同時期の戦間期には、ガリツィア等からの難民が
ウィーンへも押し寄せ、イディッシュ語のコミュニティを形成したことが知られている[3]。

1934年5月に入るとユダヤ自治州に昇格した。1935年から37年にかけて、ソヴィエト当局はユダヤ自治州をユダヤ自治
共和国に昇格させる趣旨の指針を発表した[4]。

しかし1930年代後半にスターリンの大粛清によりユダヤ人指導者は逮捕・投獄され、ユダヤ文化は迫害された。
このためユダヤ人人口は減少し、ソ連崩壊後の新移民政策によりさらに多くのユダヤ人がドイツやアメリカ合衆国などに出国した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E8%87%AA%E6%B2%BB%E5%B7%9E