邪馬台国畿内説というトンデモ論が九州説より有力なのは変よな…地理的に畿内説は無理があるやろ
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>>172
九州までの国は詳細に書いてあるのに
そこから途中の国の記載が全く無くいきなり近畿とか無いわ >>169
国内の遺跡発掘したら文字資料が出てきたとかそんなのがあればワンチャンは 神武東征で大和に政権建てたって神話から勝手に邪馬台国日向説建ててるんやが、コレって詳しい奴から見たらどれくらい可能性ある?
ただのトンデモか? 邪馬台国の時代の権力の中心が畿内であることは
発掘調査で判明しつつあるので
邪馬台国自体はどこにあろうが既にどうでもいいと言えば
どうでもいい 別に東征なら邪馬台国東遷でなくてもよい
例えば糸島(伊都国)からは皇室のレガリア八咫鏡の特徴すべてを具備する鏡が見つかっている
そしてここには日向という地名もある
https://i.imgur.com/3uvryQz.jpg 邪馬台国はたぶん九州の一大勢力だっただけで=ヤマト王権ではないと思うわ >>156
九州にあった王権が映ったやまとに移ったのが神武東征だろっていう
日本神話でも天孫降臨は宮崎だろ >>184
それは魏志倭人伝を読んでいない証拠
投馬国を経由している 倭国大乱でそれを治めるために卑弥呼っていうシャーまんさんが王になってとりあえず九州にいたんやけど九州が凶作になったから機内にみんなで移住しました >>164
戦利品としてぶんどったから九州になくて各地にあると考えたほうが合理的なような >>186
0やないけど逆に無理矢理正統性作った感ある 最近は魏志倭人伝の邪馬台国からしてフィクションやろ?って説もあるんやな >>184
その間はほんまに「国がなかった」んやと思うわ
古事記にも「国を大国主が治めるまでは混沌としてて天照でも手出し出来んかった」みたいなのはあるし 邪馬台国がヤマト朝廷の前身ってする理由ってあんの? 素人の感覚やと当時の大都会出雲と岡山をガン無視で畿内に至るは納得は出来ないやね 九州にあったとしてヤマトタケルの九州征伐が説明できなくなるが >>195
マルコポーロの東方見聞録だって
マルコポーロはそもそも元になんて行ってない説も有力やもんな だいたい卑弥呼が渡来人の王なんだから九州から機内に移動してきた集団なのは明らかじゃん >>177
同時期に北九州から南に進出したのがニニギで東征に行ったのがニギハヤヒなんやろな
最終的にニニギ系統が宮崎からニギハヤヒのルート後追して大和征服した
せやから最初のニギハヤヒの東征の過程が歴史からすっぽり抜けた >>198
ある程度の勢力がいるその辺は避けて畿内に攻めたとするのは別に不思議でもないやろ >>197
する必要なくてもそうだからしょうがない
日本書紀に書いてある出来事が魏志倭人伝の邪馬台国記事と完全一致している >>206
なんでわざわざ神功皇后を卑弥呼と推定したのかなって当時書いたやつは
卑弥呼自体は無視してもいいのに そもそも仮に邪馬台国が後のヤマト王権だったとして九州から畿内に東征、移る意味よ
そこがまず解決しな答え出んやろ >>194
無理矢理正当性作ったっていうのは九州説ゴリ押しみたいってこと? >>98
邪馬台国時代には既に「吉備・出雲・畿内」の大連合が形成されていた事が分かる
https://i.imgur.com/DNfxkjm.jpg
これが倭国最強勢力の女王国である そもそも邪馬台国が本当に日本か怪しい
実際は東南アジアの国だったかもしれない >>208
投馬国は不弥国か伊都国から南に行くから南九州やん >>214
だってわざわざ東に行く意味よ
そもそも行く必要なく無い?って話 あの時代に命懸けで九州上陸してそっから機内まで来るか? 考古的にはほぼ決着が付いてるから
九州に纏向遺跡と箸墓古墳以上の遺跡はない >>212
遷都なんてする理由はいくらでもあるけど単純にハコのでかさが違うからなあ
人口動態みても明らかに近畿じゃないと足りないだけ人が増えてるんやしそら移住しないでどうにかしたと考える方がナンセンスちゃう 親魏倭王は北インド全域を手中に収めた親魏大月氏王に匹敵する称号
本州西日本に形成されていた大連合を統べる女性巫女か九州の女酋長か
どちらがその称号に相応しいのかは一目瞭然だろう >>217
阿波らへんにまだ調査がされてない大規模集落跡とか沢山あるらしいで >>228
こういうのって基本存在を否定するほうが非合理性がますで
わざわざそんなものを捏造した意味を見出す必要あるし
ナザレのイエスなんていなかったとかも 実際に畿内に行った裴世清の見聞記録に基づく隋書倭国伝には、そこが魏志で言うところの邪馬臺であると明記されている
古代中国人が畿内が邪馬台国だと言ってるのがすべて 日本はその始まりから天皇が統治する単一国家だったってことにしたいから邪馬台国は畿内にないと都合が悪い
皇紀とも辻褄が合わんしな 九州が勢力を誇ったのは大陸から近いからなのかそもそも大陸から来た人達が勢力を広げたのかどっちなんやろな
それでなんで畿内に移ったのか 卑弥呼より昔の
前漢書にある委奴国王印が出土してるからなあ
実在は事実やろうな 畿内にデカイ国があるなら九州で上陸せずに船で岡山兵庫に行くものなんじゃね >>228
だからヤマト国だって
高地性集落という古代の山城が西日本各地に出現して
その倭国大乱を収めたのが奈良盆地に拠点を置く勢力 >>232
倭の五王とかも解明してほしいわ
倭の五王が天皇家とは何も関係ないのかもしれないけど まだ畿内説なんて信仰しているアホってアポロ11号月着陸捏造説とかも信じてそう 結局魏の使者は朝鮮→対馬→壱岐→
末盧国(北九州)を経由して邪馬台国に着いたと
魏志倭人伝に書いてあるのがね
末盧国から日本海を渡って畿内にある邪馬台国に来たんやでは
ちょっと無理ありそう >>229
よー解らんが一旦九州来てから日本海側の海流に乗って北上したんか? >>235
そもそも裴世清も畿内に来るために筑紫を経由している 九州のかっぺ凶暴すぎて草
こんな大昔の事が気になるんか…w >>233
両方でしょ
水稲耕作も早かったし鉄器が広まるのも早かった
移住や交易を通して
それが魏の時代に覇権が九州から畿内に移っただけのこと >>222
それはおかしな話だよ
仮に畿内行くまでの道中の四国勢力、山陰、山陽勢力は降伏、服従してたとしてもわざわざ全軍率いて畿内に攻め上る理由が無いでしょ
後のヤマト王権だというならやり方、統治の仕方がまるで正反対やし もうこれは完全に妄想やから鼻で笑われてもしゃあないが、
ステュアート朝イングランドみたいな感じで当時の政治の中心は既に大和やったけど王だけ九州系(出雲系?)に乗っ取られたとかはあるかな
大国主が国譲り了承したのも血統の祖が近かったからっていう どっちも邪馬台国(ヤマト国)で九州の方は
自治を任された地方政権という説はないんか?
これなら矛盾せんやろ 天皇家も古代には漢民族の末裔自称してたとかもおもろいよな
琉球王家が源氏の末裔自称し多様なもんだと思うけど >>216
途中で出てくる地名がガッツリ日本なんだが ていうか一言で古代言っても数百年もありゃ実態は変わってくるだろ
今からたかが150年前が江戸時代やぞ? >>161
そもそもそれは魏志倭人伝が書かれた時代の中国語の発音から考える必要があるのでは? 倭国大乱も日本書紀崇神紀にハッキリと記載されている
『国民の半数が疫病で死に絶えた』
『百姓の多くが流浪し、中には背く者もあり治めるのが難しいほどであった』
その混乱を鎮めるために現れるのがヤマトトトヒモモソヒメ(大物主憑依状態)であって、彼女こそ魏志倭人伝で言うところの卑弥呼なのである この辺の時代って関西より西の地方しか語られんよな
関東はまだ縄文人みたいな生活してたんやろか? シャーマンを崇め奉るってのが民族性的に若干ミスマッチを感じるんだよね >>252
産業革命とかグローバル化とかいろいろあったけどね
人口は急増した >>255
縄文人ってひたすら平和だったんだけどなんか問題あんのか >>98
明治時代に突入する前の日本なんて全部そんな感じやろ >>243
漢委奴国王金印は紀元57年
この画像だと漢鏡4期の時代。当時は九州が圧倒的だから九州で金印が見つかるのも当然
https://i.imgur.com/3TF5DSn.jpg
しかし邪馬台国はそれから200年も後の時代 >>255
地名からはまだアイヌ系民族が東北や関東にいたことも示唆されるしな >>216
対馬から九州北部まで今と同じような地名でほぼ確定されとるで
その後出雲やら中国地方全部すっ飛ばしていきなり奈良に行くのが畿内説(笑) >>261
本当に平和なら三内丸山遺跡のような見張り台を作るかな >>258
じゃあなんで百襲姫の墓が崇神天皇の墓より大きいんですか?
巫女が天皇より強大な権力を持っていたからではないのですか? 5世紀くらいに仏教儒教神道漢字がセットで出てくる
たぶん騎馬民族が襲来したんだとおもう。 >>261
せや
狩猟中に人死んだり明らかに矢じりかなんかで傷ついた遺体あったり普通に食糧不足でヤバいことになってたりしたけど平和や そもそもその当時は国とか王権という概念ない
小さな集落が食料求めて領土広めてたくらいやろ >>257
でもそれが少なからず噂程度でも有ることで島津に滅亡させられずに済んでるからな
島津も源氏の流れを汲むから滅ぼさずに服従させる方に切り替えたとか 畿内から絹は出ない←大嘘
纒向遺跡から日本最古の天蚕絹製品発見済み >>258
伊勢神宮の斎宮は女やろ
日本書紀にも出てくるし >>246
といっても自分らの神話に組み込んだ以上はそういう伝承なりがあったという事なんじゃないの
神の子孫ってだけなら直接大和に降臨させときゃ済む話なんだし 史書を素直に読めば現在の糟屋郡宇美町から南に100キロ以内
筑紫平野の一帯が邪馬台国やろ
それをあーだこーだ御託を並べて否定してきたのが現実
現実や事実よりも自分の妄想や願望を優先させる日本の歴史学はやっぱゴミだわ 【魏志倭人伝&日本書紀崇神紀対応表】
①『倭国大乱を収めるために卑弥呼擁立した』:魏志倭人伝
①『流行り病で国民の半数が死に、百姓が流浪し背いて治める事すら難しくなった時に百襲姫(大物主憑依状態)を祀った』:日本書紀
②邪馬台国で卑弥呼に仕える官「弥馬獲支(ミマワキ)」:魏志倭人伝
②「“ミマキ”イリヒコ(崇神天皇)」:日本書紀
③邪馬台国で卑弥呼に仕える官「伊支馬(“イキマ”)」:魏志倭人伝
③崇神の子ども「“イクメ”イリヒコ(垂仁天皇)」:日本書紀
④卑弥呼の後に女王になった「臺与(トヨ)」:魏志倭人伝
④崇神の娘で日本最初の斎王「豊鍬入姫(“トヨ”スキイリヒメ)」:日本書紀
⑤径100余歩(約150m)とされる巨大な卑弥呼の墓:魏志倭人伝
⑤『昼は人が造り、夜は神が造る』と評されたほど尋常ではない百襲姫の大市古墳に対応。大市古墳の後円部(主体部が眠る)も156m:日本書紀
⑥魏志倭人伝『卑弥呼が死んだ後に乱が起きた』:魏志倭人伝
⑥百襲姫死亡の次の記事に崇神帝による四道将軍派遣:日本書紀
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これが全部偶然の一致だとでも言うのか? 卑弥呼って萌えキャラにしやすそうなのに意外とされてないよな >>278
水行20日・水行10日・陸行1月が100km?バカバカしい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています