邪馬台国畿内説というトンデモ論が九州説より有力なのは変よな…地理的に畿内説は無理があるやろ
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>>228
こういうのって基本存在を否定するほうが非合理性がますで
わざわざそんなものを捏造した意味を見出す必要あるし
ナザレのイエスなんていなかったとかも 実際に畿内に行った裴世清の見聞記録に基づく隋書倭国伝には、そこが魏志で言うところの邪馬臺であると明記されている
古代中国人が畿内が邪馬台国だと言ってるのがすべて 日本はその始まりから天皇が統治する単一国家だったってことにしたいから邪馬台国は畿内にないと都合が悪い
皇紀とも辻褄が合わんしな 九州が勢力を誇ったのは大陸から近いからなのかそもそも大陸から来た人達が勢力を広げたのかどっちなんやろな
それでなんで畿内に移ったのか 卑弥呼より昔の
前漢書にある委奴国王印が出土してるからなあ
実在は事実やろうな 畿内にデカイ国があるなら九州で上陸せずに船で岡山兵庫に行くものなんじゃね >>228
だからヤマト国だって
高地性集落という古代の山城が西日本各地に出現して
その倭国大乱を収めたのが奈良盆地に拠点を置く勢力 >>232
倭の五王とかも解明してほしいわ
倭の五王が天皇家とは何も関係ないのかもしれないけど まだ畿内説なんて信仰しているアホってアポロ11号月着陸捏造説とかも信じてそう 結局魏の使者は朝鮮→対馬→壱岐→
末盧国(北九州)を経由して邪馬台国に着いたと
魏志倭人伝に書いてあるのがね
末盧国から日本海を渡って畿内にある邪馬台国に来たんやでは
ちょっと無理ありそう >>229
よー解らんが一旦九州来てから日本海側の海流に乗って北上したんか? >>235
そもそも裴世清も畿内に来るために筑紫を経由している 九州のかっぺ凶暴すぎて草
こんな大昔の事が気になるんか…w >>233
両方でしょ
水稲耕作も早かったし鉄器が広まるのも早かった
移住や交易を通して
それが魏の時代に覇権が九州から畿内に移っただけのこと >>222
それはおかしな話だよ
仮に畿内行くまでの道中の四国勢力、山陰、山陽勢力は降伏、服従してたとしてもわざわざ全軍率いて畿内に攻め上る理由が無いでしょ
後のヤマト王権だというならやり方、統治の仕方がまるで正反対やし もうこれは完全に妄想やから鼻で笑われてもしゃあないが、
ステュアート朝イングランドみたいな感じで当時の政治の中心は既に大和やったけど王だけ九州系(出雲系?)に乗っ取られたとかはあるかな
大国主が国譲り了承したのも血統の祖が近かったからっていう どっちも邪馬台国(ヤマト国)で九州の方は
自治を任された地方政権という説はないんか?
これなら矛盾せんやろ 天皇家も古代には漢民族の末裔自称してたとかもおもろいよな
琉球王家が源氏の末裔自称し多様なもんだと思うけど >>216
途中で出てくる地名がガッツリ日本なんだが ていうか一言で古代言っても数百年もありゃ実態は変わってくるだろ
今からたかが150年前が江戸時代やぞ? >>161
そもそもそれは魏志倭人伝が書かれた時代の中国語の発音から考える必要があるのでは? 倭国大乱も日本書紀崇神紀にハッキリと記載されている
『国民の半数が疫病で死に絶えた』
『百姓の多くが流浪し、中には背く者もあり治めるのが難しいほどであった』
その混乱を鎮めるために現れるのがヤマトトトヒモモソヒメ(大物主憑依状態)であって、彼女こそ魏志倭人伝で言うところの卑弥呼なのである この辺の時代って関西より西の地方しか語られんよな
関東はまだ縄文人みたいな生活してたんやろか? シャーマンを崇め奉るってのが民族性的に若干ミスマッチを感じるんだよね >>252
産業革命とかグローバル化とかいろいろあったけどね
人口は急増した >>255
縄文人ってひたすら平和だったんだけどなんか問題あんのか >>98
明治時代に突入する前の日本なんて全部そんな感じやろ >>243
漢委奴国王金印は紀元57年
この画像だと漢鏡4期の時代。当時は九州が圧倒的だから九州で金印が見つかるのも当然
https://i.imgur.com/3TF5DSn.jpg
しかし邪馬台国はそれから200年も後の時代 >>255
地名からはまだアイヌ系民族が東北や関東にいたことも示唆されるしな >>216
対馬から九州北部まで今と同じような地名でほぼ確定されとるで
その後出雲やら中国地方全部すっ飛ばしていきなり奈良に行くのが畿内説(笑) >>261
本当に平和なら三内丸山遺跡のような見張り台を作るかな >>258
じゃあなんで百襲姫の墓が崇神天皇の墓より大きいんですか?
巫女が天皇より強大な権力を持っていたからではないのですか? 5世紀くらいに仏教儒教神道漢字がセットで出てくる
たぶん騎馬民族が襲来したんだとおもう。 >>261
せや
狩猟中に人死んだり明らかに矢じりかなんかで傷ついた遺体あったり普通に食糧不足でヤバいことになってたりしたけど平和や そもそもその当時は国とか王権という概念ない
小さな集落が食料求めて領土広めてたくらいやろ >>257
でもそれが少なからず噂程度でも有ることで島津に滅亡させられずに済んでるからな
島津も源氏の流れを汲むから滅ぼさずに服従させる方に切り替えたとか 畿内から絹は出ない←大嘘
纒向遺跡から日本最古の天蚕絹製品発見済み >>258
伊勢神宮の斎宮は女やろ
日本書紀にも出てくるし >>246
といっても自分らの神話に組み込んだ以上はそういう伝承なりがあったという事なんじゃないの
神の子孫ってだけなら直接大和に降臨させときゃ済む話なんだし 史書を素直に読めば現在の糟屋郡宇美町から南に100キロ以内
筑紫平野の一帯が邪馬台国やろ
それをあーだこーだ御託を並べて否定してきたのが現実
現実や事実よりも自分の妄想や願望を優先させる日本の歴史学はやっぱゴミだわ 【魏志倭人伝&日本書紀崇神紀対応表】
①『倭国大乱を収めるために卑弥呼擁立した』:魏志倭人伝
①『流行り病で国民の半数が死に、百姓が流浪し背いて治める事すら難しくなった時に百襲姫(大物主憑依状態)を祀った』:日本書紀
②邪馬台国で卑弥呼に仕える官「弥馬獲支(ミマワキ)」:魏志倭人伝
②「“ミマキ”イリヒコ(崇神天皇)」:日本書紀
③邪馬台国で卑弥呼に仕える官「伊支馬(“イキマ”)」:魏志倭人伝
③崇神の子ども「“イクメ”イリヒコ(垂仁天皇)」:日本書紀
④卑弥呼の後に女王になった「臺与(トヨ)」:魏志倭人伝
④崇神の娘で日本最初の斎王「豊鍬入姫(“トヨ”スキイリヒメ)」:日本書紀
⑤径100余歩(約150m)とされる巨大な卑弥呼の墓:魏志倭人伝
⑤『昼は人が造り、夜は神が造る』と評されたほど尋常ではない百襲姫の大市古墳に対応。大市古墳の後円部(主体部が眠る)も156m:日本書紀
⑥魏志倭人伝『卑弥呼が死んだ後に乱が起きた』:魏志倭人伝
⑥百襲姫死亡の次の記事に崇神帝による四道将軍派遣:日本書紀
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これが全部偶然の一致だとでも言うのか? 卑弥呼って萌えキャラにしやすそうなのに意外とされてないよな >>278
水行20日・水行10日・陸行1月が100km?バカバカしい 百襲姫も巫女としての神婚だから人間と結婚しておらず子どもを残していない
夫のいない卑弥呼と整合する 地理的に素直に考えるなら九州なんやろうけど
それにしては何も出てこなすぎやしそれっぽい遺跡も無いんよな >>264
アイヌって13世紀に混血で生まれた民族やで…それ以前は存在してないぞ 投馬国=妻木晩田遺跡=出雲
邪馬台国=纏向遺跡=大和王権だと思う
遺跡の規模を考慮すると今のところこれしかない まあ大化の改新から勉強すれば大丈夫
縄文弥生の知識は不要。 >>276
奈良百済はギリ分からんでもないとして外百済はなんなんや 女王国から北の国は斯馬国やら己百支国やらアホ程国の名前を挙げてるのに南は狗奴国だけっつーのも九州ぽいんよな そもそもほんまにあったんか
これだけ日本中ほじくり返しても見つからんのおかしいやろ
当時の中国人が適当な事書いたのでは? >>274
卑弥呼の時代より半世紀くらい古い平原遺跡も女性被葬者、三種の神器、太陽信仰そろっとるし当時の北九州の文化受け継がれた感じやろ
大和入ってからの天皇もしばらくは入り婿っぽいけどな 魏から金印貰うくらいの外交をしてたんだから
かなり大規模な権力機構でないとおかしい
それが九州にあったとすると
当時畿内にヤマトの前身政権はあった訳でヤマトとは別という事になる
そして その九州政権は伝承にも残らず大規模に争った形跡も残さず
歴史から消えたことになる >>280
マジレスすると当時の中国語の読みとか日本語の読みは全く明らかになってないからな 尾張の王国ってどんな感じだったんだろう
国造って地方豪族?独立国家の長? 魏志倭人伝がガバガバなのが悪い
九州で遺跡見つかったら決着つきそうやけど 百襲姫の墓がデカいのは別に変でもないけどな
その時代は地方の豪族らでもヒメヒコ制で祭祀はヒメが、国の政はヒコが行ってたから王と同格の扱いでも何ら不思議やない >>168
この○期っていうのと年代は全く合致してないから気をつけたほうがええで
畿内から見つかるのはほぼ古墳からや
古墳の年代を100年ぐらい前倒ししてる計算 >>294
纏向遺跡とか箸墓古墳とか
高地性集落から西日本全体で戦争してたこともわかってる
ないのは金印だけ 『文献通考』に渡三海歴七国とあり、『梁書』『御覧』にも「又」があり、後世の中国史家は皆この行程記事を【順次式】で理解していた事が分かる
傍線行程&放射式読みは日本人が開発した大嘘 魏の使節がホントに日本に来たという常識を疑ってみないか?
親魏倭王に任命するためには金印を渡しに行く必要あるんだけど
台風やらなんやらで行こうにも行けないほんなら書類上だけでも行ったことにしようと
伝聞で通りに記したらあんな感じになってしまったという説や 学者さん「既存の有力な説はこのように証拠に欠けると言わざるをえない」←その通りですね🤗
学者さん「ゆえに私は新たな説を提唱する」←お前もガバガバやんけ😠
こういうの多くない? >>288
またそんなこと言ってるのか
なら東北に残るアイヌ語に由来する地名はどう解釈するんや >>288
出たアイヌ文化とアイヌ民族を混同する奴
文化=人種なら本州人も明治以降と江戸以前で別の人種ってことになるが 東国の謎の神アラハバキももっと話題にならんものかな まあ邪馬台国が普通の男王の国ならソコまで興味を持たれてないやろなあ
女王国やから興味をそそられるんや 邪馬台国卑弥呼が倭国の王説に違和感あるのは当然だわ
でも魏がなんか勝手に言っているだけで
畿内にいる王様が本当に偉かった模様 >>307
まあ本当に言いたいのは最初だけなんやろ インディアン駆逐した欧州人は許されへんのに縄文人駆逐した弥生人は許されてる謎 5世紀ぐらいに都が大阪にあった説最近知ったわ
確かに普通に考えたら仁徳天皇陵が本当に仁徳天皇のものだとしたらその時近くに都あってもなんらおかしくないね 邪馬台国=ヤマト=奈良県熊野
卑弥呼⁼日の巫女=天照大御神
当時は自然神(この場合は太陽神)信仰だったので巫女が治めていた
どうせこんな話やわ 多分倭人伝に出てくる数字は全部10倍されてる
10倍に書くってのは三国志に記述があるで
壱岐に三千家とか博多に二万戸とか絶対にないし
1つの集落に千人以上(奴婢千人)住んでる所とか全くないで ワイは吉備説を推すぞ
最も栄えていたのは九州でも関西でもなく吉備つまり岡山や
魏に王と認められるということは最も栄えていた王の地つまり吉備や >>322
源平合戦を北陸から九州まで行き来してるぐらいやぞ?
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