>>115
球界復帰への道

事件後は野球中継・野球関連のニュースをほとんど見ず[83]、野球道具も押し入れに押し込んでいた[注 54]が、就職から丸1年が経過したころ、社内の野球チームから「一緒にやろう」と誘われたことがきっかけで、グラブを押し入れから取り出した[75]。
当時、中山は「過ちは一生消えないし、人前に出れば被害者をまた苦しめることになる。野球を諦めて世間に忘れられた方がいい」という思いを抱えていたが、一方で「どうしても野球をやりたい気持ち」も強く[128]、1992年末ごろには職場があった大黒埠頭・アパート近辺で3 - 5 kmの距離を毎日ランニングしていたほか[55]、1993年3月以降は現役復帰に向けた練習を開始していた[146]。なお同年には知人の紹介により、球界復帰後の1995年に結婚した20歳代女性(家事手伝い・神奈川県川崎市在住)と知り合った[147]ほか、このころには後述の署名活動を主導していた入谷から「少しキャッチボールなどをして体を作っておけ」とアドバイスを受け[75]、昼休みに同僚とキャッチボールをしていたが、同僚たちはプロの第一線で活躍していた中山の球威を恐れたためか、キャッチボールを躊躇するようになっていった[145]。



中山ですら雇ってもらえたし余裕やろ