●2012年にル=グウィン公式ブログで発表されたエッセイ"A Modest Proposal: Vegempathy"(『ささやかな提案:植物の身になって考えよう』)

 雑食動物、肉食動物、菜食主義者(ベジタリアン)、完全菜食主義者(ヴィーガン)のような原始的状態から、人類が次元を進める時が来た。
我々は、避け得ぬ次の一歩、オーガニズム――空気食の道――へと踏み出さねばならない。そして肥満、アレルギー、残酷性から我々を引き離し、穢れなき純粋性へと向かわせるのだ。
我々のモットーは、「必要なのはOだけ」であらねばならない。
◆◆◆
 動物たち――我々が肉、牛乳、卵のために飼育しなければ、動物園の外にはほとんど存在しなかったであろう動物たち――の苦しみに心痛める多くの人々は、我々が飼育し、あるいは自然から狩り獲ったりする野菜たちの終わりなき巨大な苦しみに関して、不思議なことに無関心を貫いている。
我々の手で植物が受ける仕打ちのことを、少しばかり考えてみてほしい。
我々は彼らを選択的に、嫌がらせて、苦しめて、毒して、冷酷に繁殖させる。
我々は彼らを広大な単作地に繁茂させ、我々の欲望に影響する場合のみ彼らの幸福を気遣い、種子、花、果実などの副産物のためだけに多くを育てる。そして、
「収穫」され、根こそぎにされ、大地や枝から生きながらにして引き裂かれ、千切られ、切られ、刻まれ、バラバラに裂かれたときの彼らの苦痛…
あるいは「調理」され、沸騰したお湯や油やオーブンへと死ぬために落とされたときの彼らの苦痛…
あるいは最悪の場合、生で食べられ、人間の口に押し込まれて人間の歯に咀嚼され、しばしば生きたまま飲み込まれる彼らの苦痛…
のことを考えず、我々は彼らを虐殺する。
◆◆◆
 店頭でビニール袋に入れて買ったから、豆は死んでいると思うだろうか?
冷蔵庫にしばらく入れていたから、ニンジンは死んでいると思うだろうか?
そうした豆を数粒湿った大地に植え、1、2週間待ってみた事があるだろうか?
ニンジンの頭を真水の受け皿に入れ、1、2週間待ってみた事があるだろうか?
植物の命は目に見えにくいかもしれないが、動物の命よりもはるかに強く、頑丈なのだ。 もしも牡蠣を真水に入れて一週間保管したら、結果はかなり異なったものになるだろう。
しからば、牡蠣を食われし物に貶めるのが不道徳であるなら、なぜニンジンや豆腐の欠片に同じ事をするのは非難されず、高潔でさえあるとされるのだろうか?
「ニンジンは苦しんでいないからだ」とヴィーガンは言う。「大豆には神経系がない、痛みを感じない、植物には感情がない」
◆◆◆
 それはまさに何千年もの間動物について多くの人が言ってきたことであり、多くの人が今なお魚について言っていることである。