大学までの宮崎

幼い頃から野球に興味を持っていたが両親から剣道を進められていた事もあって野球チームに入ったのは小学校6年生になってからだった。入団前から知人に貰った長く重いバットで練習を行った影響でミートポイントが近くなり、入団から3日後の練習試合では右方向への本塁打を2本放つなど早くも持ち味となる右打ちセンスを発揮した。地元の厳木高に進学するとグラウンドの左翼にアーチェリー部の練習場があったため練習では右方向しか狙わず大きな武器となる右打ちに磨きをかけた。2年の夏から4番エースを任され甲子園出場はならなかったが高校通算24本塁打を記録。日本文理大に進学すると野手に転向して1年の秋から試合に出場。3年春と4年春秋に中九州大学リーグの最優秀選手、4年時には200人の部員をまとめる主将も勤めた。