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1989年に暁星国際高等学校に進学したが、入学時は全く無名の選手で、当時の五島卓道監督曰く「千葉西リトルの(中学)2年生で欲しい選手がいて、その選手を獲る代わりに頼まれたのが、どこからも声のかからない小笠原だった」という[3]んや。
それまでは遊撃手・三塁手・外野手の複数のポジションをこなしていたが、高校進学後に二塁手にコンバートされ、翌1990年にはチーム事情から捕手を兼ねる(ただし、本人は「捕手は一番嫌なポジション」だったという)[3]んやで。
2年生の時には同期のエース北川哲也を擁し、二塁手、五番打者として1990年夏の千葉大会決勝に進むが、成田高校に敗れ甲子園出場を逸するんやで。高校通算本塁打は0本で、県内でも注目された選手ではなかった[4]んや。