オジュウチョウサンのファンから舐められてるグランドマーチス

1975年

グランドマーチスの勢いは止まらず、年明けから66kg、66kg、68kgの斤量を背負いながら3連勝で中山大障害(春)へ。わずか5頭立てのレースとなり、グランドマーチスは靱帯を痛めながらの出走だったが、レース序盤に先頭を奪うと、後は楽に逃げ切って後方から追い込んだサクラオンリーを尻目に6馬身差の圧勝で3連覇。鞍上の寺井はレース後のインタビューで「つかまっているだけで勝ったようなものです」と答えた。関西に戻り翌月の京都大障害(春)も不良馬場のなかゴール寸前でブゼンサカエを差し切り、前年の10月から9連勝で春秋連覇を達成した。

秋は復帰戦として9月27日の障害ステークスに出走。72kgの斤量での出走となり、6kgの鉛ゼッケンに5kgの鉛鞍、そして寺井も4kgの鉛バンドをつけて出走したが6着に敗れ、10連勝はならなかった。しかし続く京都大障害(秋)は65kgに斤量が戻り、グランドマーチスは2周目の第3コーナーでエリモロイヤルを抜いて先頭に立つと、最後は10kg軽いニホンピロロイヤルに5馬身差で京都大障害3連覇を達成した。そのまま暮れの中山大障害に向かったが、同じ月に寺井が落馬により股関節を骨折し療養中だったため、障害戦で一貫して鞍上を務めた寺井から法理弘に乗り替わった。グランドマーチスは単勝1.1倍という人気であり、法理は他の馬の落馬のあおりを受けないことを第一とし、レースでも3つ目の土塁で転倒したゴールドシャトーをうまくかわすと、そのまま先頭へ。直線で後続を突き放すと、追い込んだバローネターフに5馬身差で中山大障害4連覇、そして中央競馬初の獲得賞金3億円を達成した。

この年、中山大障害の重量設定が「中山大障害1着馬2kg増」から「中山大障害1勝毎2kg増」に変更され、グランドマーチスはそれまでの60kgから66kgと大幅な負担増を強いられることになった。これについて中央競馬会は「障害レースの興味を増し、障害馬資源の充実を図るため」と説明したが、あからざまにグランドマーチスに対して直撃する変更と受け取られ、馬主会からの圧力ではないかという疑念が持たれた。

グランドマーチスは以前からの裂蹄が悪化するなかで、鞍上を寺井に戻して中山大障害に臨んだが、4番人気の伏兵エリモイーグルの逃げ切りを許して5連覇はならなかった[4]。続く京都大障害で同レース4連覇を狙ったが、レース中に左前第一指骨骨折を発症し9着に惨敗。全治6ヶ月と診断され、ここで引退を決めた。平地24戦4勝、障害39戦19勝。障害競走での落馬は一度も無かった。