徳川家康と正室の築山殿が不仲だったというのは、研究者によって強弱こそあるが、ほぼ共通認識である。元亀元年(1570)、家康が岡崎城(愛知県岡崎市)から浜松城(静岡県浜松市)に拠点を移した際、岡崎にとどまって以来、築山殿は死ぬまで家康と別居生活を送った。そのことからも、不仲だったことは疑う余地がないといわれている。

 ところが、NHK大河ドラマ『どうする家康』を見ているかぎり、この夫婦が不仲だとは微塵も感じられない。家康は築山殿(ドラマでは瀬名)を慕いつづけ、ほんとうは一緒に暮らしたいのだが、岡崎にいる長男の信康の面倒を見るために、築山殿は自分の意志で岡崎に残っている、という設定なのだ。

 脚本を担当した古沢良太がそう描いてきたのは、築山殿(ドラマでは瀬名)を、大河ドラマの中盤における悲劇のヒロインに仕立てるためだったのだろう。

 だが、それにしても、築山殿の悲劇があまりにも荒唐無稽に描かれようとしている。

脚本は、あまりにも歴史を無視しすぎているというほかない。

 戦国大名がなぜ戦いつづけざるをえなかったか。それはひとえに領国の平和を維持するためだった。柴裕之氏の言葉を借りれば、「戦国大名・国衆は、自身の領国や従属国家を従えた『国家』を外からの脅威から守り、『平和』を維持するため、その解決手段として戦争を選んだ」(『徳川家康』平凡社)。

 とくに領国の境界の地域は、常に敵の脅威にさらされ、戦いが絶えなかった。戦わなければ敵の侵攻を許してしまう。また、境界の地域の国衆は味方と敵に両属していることも多く、自分が従属している戦国大名に、戦って「平和」を守る意志がないと判断すれば、国衆はすぐに離反した。戦わなければ国衆を従属させることもできず、国衆が離反すれば自身の滅亡につながりかねなかった。

 家康はそれを百も承知だった。なぜ戦をするのか「考えたこともない」ばかりか、「貧しいから」「隣国から奪い合うしかない」などと返答するなら、戦国大名ではない。