1955年(昭和30年)5月、前年に発生した第五福竜丸事件の影響により日本各地で原水爆禁止運動が盛んになると共に反米感情が高まる中、カトリック長崎司教山口愛次郎は天主堂再建の資金援助を求めて渡米したが、米国側から資金援助の条件として天主堂遺構の撤去を求められたという[2]。ちょうど同じ頃、長崎市は米国ミネソタ州セントポール市との間で日米間の都市としては初めてとなる姉妹都市提携を締結[3]。当時長崎市長で天主堂遺構の保存に前向きであった田川務は、締結の翌年1956年(昭和31年)に米国を訪問したが、帰国後は保存に否定的な立場となるなど態度を一変させている[3]。1958年(昭和33年)の市議会では「原爆の必要性の可否について国際世論は二分されており、天主堂の廃墟が平和を守る唯一不可欠のものとは思えない。多額の市費を投じてまで残すつもりはない」と答弁し、議会決定に反して撤去を決定した。


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