【NHK】らんまん
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1それでも動く名無し
2023/08/02(水) 08:01:30.69ID:I8QOw7Ufa はい
380それでも動く名無し
2023/08/02(水) 08:20:00.52ID:SbTcaEl/M >>378
草
草
381それでも動く名無し
2023/08/02(水) 08:20:50.83ID:0B0ofSEp0 はえ〜
384それでも動く名無し
2023/08/02(水) 08:23:00.52ID:SbTcaEl/M こういうのはあさイチの時間じゃなくてニュースの時間にやろうや
385それでも動く名無し
2023/08/02(水) 08:23:06.66ID:6ENIrOPSd 「今の日本に、植物の研究者は極めて少ない。一人でも排除し、研究を封じるのは、学界の損失であり、植物学の進歩を妨げることになる。また、先輩には後輩を引き立てる義務があるはずだ」
言葉を尽くして撤回を求めたが、矢田部は聞き入れなかった。こう書くと、一方的に矢田部が悪いようにみえるが、富太郎にも配慮が足りない部分があった。
富太郎は出版にあたり、大学の資料を使用しているにもかかわらず、矢田部の許可を得ておらず、『日本植物志図篇』に大学や教授への謝辞をひとことも載せていなかった(上村登『花と恋して─牧野富太郎伝』)。そんなところも、矢田部の気に障ったのかもしれない。
この植物学教室追放事件に関しては、富太郎に同情的な意見が多かった。親友の池野成一郎は、自分のことのように怒りをあらわにしたという。
しかし、もともと学生でも職員でもない富太郎が、日本一の学問の場である植物学教室に出入りできたのは、ひとえに矢田部の好意によるものである。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2ece09a493b1b15e463cabd23d0f5d347a9862a9
1893年(明治26年)、矢田部非職後に東京帝国大学理科大学の主任教授となった松村任三教授に呼び戻される形で助手となった。助手の月給で一家を養っていたが[注釈 5]、文献購入費などの研究に必要な資金には事欠いていた。
それでも、研究のために必要と思った書籍は非常に高価なものでも全て購入していたため多額の借金をつくり、ついには家賃が払えず、家財道具一切を競売にかけられたこともある[注釈 6]。
その後、各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。
ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり、厚遇はされなかった[5]。松村とは植物の命名などを巡って対立もしている。
1900年(明治33年)から、未完に終わった『日本植物志図篇』の代わりに新しく『大日本植物志』を刊行する。今回は自費ではなく帝大から費用が捻出され、東京の大手書店・出版社であった丸善から刊行された。だがこれも松村の妨害により、4巻で中断してしまった。
こいつが嫌われるの残当すぎるやろ
言葉を尽くして撤回を求めたが、矢田部は聞き入れなかった。こう書くと、一方的に矢田部が悪いようにみえるが、富太郎にも配慮が足りない部分があった。
富太郎は出版にあたり、大学の資料を使用しているにもかかわらず、矢田部の許可を得ておらず、『日本植物志図篇』に大学や教授への謝辞をひとことも載せていなかった(上村登『花と恋して─牧野富太郎伝』)。そんなところも、矢田部の気に障ったのかもしれない。
この植物学教室追放事件に関しては、富太郎に同情的な意見が多かった。親友の池野成一郎は、自分のことのように怒りをあらわにしたという。
しかし、もともと学生でも職員でもない富太郎が、日本一の学問の場である植物学教室に出入りできたのは、ひとえに矢田部の好意によるものである。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2ece09a493b1b15e463cabd23d0f5d347a9862a9
1893年(明治26年)、矢田部非職後に東京帝国大学理科大学の主任教授となった松村任三教授に呼び戻される形で助手となった。助手の月給で一家を養っていたが[注釈 5]、文献購入費などの研究に必要な資金には事欠いていた。
それでも、研究のために必要と思った書籍は非常に高価なものでも全て購入していたため多額の借金をつくり、ついには家賃が払えず、家財道具一切を競売にかけられたこともある[注釈 6]。
その後、各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。
ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり、厚遇はされなかった[5]。松村とは植物の命名などを巡って対立もしている。
1900年(明治33年)から、未完に終わった『日本植物志図篇』の代わりに新しく『大日本植物志』を刊行する。今回は自費ではなく帝大から費用が捻出され、東京の大手書店・出版社であった丸善から刊行された。だがこれも松村の妨害により、4巻で中断してしまった。
こいつが嫌われるの残当すぎるやろ
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