普通の日本人「朝鮮半島は日本の領土!任那日本府がその証拠!」
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>>7
新モンゴロイドと旧モンゴロイドやぞ
例えばチンチンの長さでも、まるで違う
コリアン9cm
ワイら13cm 流石に支配はない
ただ倭人は多かったんやろうな
当時の日本人って朝鮮半島に略奪しにいく民間人
大和朝廷が派遣した役人がいたから つかさ
白頭山の大噴火から
民族入れ替わってるやろ 任那日本府の頃の話なんて
変なトーテムポール信仰してる現コリアンと関係ない民族の話や 朝鮮の歴史書に記録された倭人
紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。
「(始祖赫居世居西干)八年,倭人行兵欲犯邊,聞始祖有神德,乃還。」
紀元前20年 春二月に、瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。馬韓王が瓠公に「辰・卞(弁)二韓は我が属国だったのに、近年は貢物を送ってこない。大国に仕える礼(儀)が、これでいいのか?」と言った。これに対して瓠公は、「わが国は二聖が国を建ててから人心が安定し、天の時が和して豊作となり、倉庫は満ち、民が互に敬い譲るので、辰韓の遺民から、卞韓、楽浪、倭人に至るまで恐れ、かつ、したわないものはありません。しかし、わが王は謙虚で、下臣を遣わして国交を結び交わそうとするは、過ぎたる礼(儀)というべきであります。それなのに、大王はかえって怒り、兵を以て脅かすのは、これ何の意味でありますか?」と言った。馬韓王はますます怒って瓠公を殺そうとしたが、左右の臣たちが諫めてやめさせ、許して帰した。これより先、中国人たちは秦国の乱に苦しみ、東方へ亡命してくる者が多かったが、かれらは馬韓の東に多く住み着いて、辰韓人たちと雑居していた。彼らの数が多く、栄えたので、馬韓ではこれを忌み嫌って責めたものである。瓠公という人は、その族姓は詳(つまび)らかではないが、元は倭人で、初め瓠を腰に吊って海を渡って来たため瓠公と称した。
『(始祖赫居世居西干)三十八年春二月,遣瓠公聘於馬韓。馬韓王讓瓠公曰:「辰、卞二韓爲我屬國,比年不輸職貢,事大之禮,其若是乎?」對曰:「我國自二聖肇興,人事修,天時和,倉庾充實,人民敬讓。自辰韓遺民以至卞韓、樂浪、倭人無不畏懷。而吾王謙虛,遣下臣修聘,可謂過於禮矣。而大王赫怒,劫之以兵,是何意耶?」王憤欲殺之,左右諫止,乃許歸。前此中國之人苦秦亂東來者衆,多處馬韓東,與辰韓雜居,至是寢盛,故馬韓忌之,有責焉。瓠公者,未詳其族姓,本倭人,初以瓠繫腰渡海而來,故稱瓠公。』
14年 倭人が兵船百余隻で海辺の民戸に侵入したが、六部勁兵(強兵6部隊)を派遣してこれを防いだ。
「(南解次次雄)十一年,倭人遣兵船百餘艘掠海邊民戶,發六部勁兵以禦之。」
倭人「支配するより略奪する方が楽やぞ」 57年 (4代王の)脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。
(注:前漢・後漢の1里は415.8mなので、一千里は415.8kmとなる。)
4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」
59年 夏の五月に倭国と修交し、使者を派遣し合った。
「(脫解尼師今)三年,夏五月,與倭國結好交聘。」
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽烏を派遣して、これを防がせたが、勝てず、羽烏は戦死した。
「(脫解尼師今)十七年,倭人侵木出島,王遣角干羽烏禦之,不克,羽烏死之。」
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
「(祇摩尼師今)十年,夏四月,倭人侵東邊。」
122年 夏四月に都の人々が倭兵が大いに来ると噂して、争って山や谷に遁れたので、王は伊飡翌宗等に命じて諭してこれを止めさせた。
「(祇摩尼師今)十一年,夏四月,都人訛言倭兵大來,爭遁山谷,王命伊飡翌宗等諭止之。」
123年 春三月に倭国と講和した。
「(祇摩尼師今)十二年,春三月,與倭國講和。」 158年 倭人が交際を求めて来訪した。
「(阿達羅尼師今)五年,春三月,倭人來聘。」
173年 倭女王卑弥乎が使者を遣わして交際を求めて来訪した。
「(阿達羅尼師今)二十年,夏五月,倭女王卑彌乎遣使來聘。」
193年 六月、倭人が大飢饉となり、食を求める者が千余人も来た。
「(伐休尼師今)十年,六月,倭人大饑,來求食者千餘人。」
208年 夏4月、倭人が国境を侵した。伊伐飡(いばつさん。一等官)に取り立てた王子の昔利音(せきりおん)を遣わし、兵を将(ひき)いて、これを拒ませた。
「(奈解尼師今)十三年,夏四月,倭人犯境。遣伊伐飡利音,將兵拒之。」
232年 夏四月に倭人が金城を包囲した。王自ら出陣し、賊は潰走した。軽装騎兵に追撃させ、一千余を殺して首級を獲(と)った。
「(助賁尼師今)三年,夏四月,倭人猝至圍金城。王親出戰,賊潰走,遣輕騎追擊之,殺獲一千餘級。」
233年 五月 倭兵が東辺を侵略した。秋七月、伊伐飡(いばつさん。一等官)の于老と倭人は沙道で戦し、風に乗じて火で船を焚(や)き、賊は水に飛び込んで全員死亡した。
「(助賁尼師今)四年,五月,倭兵寇東邊。秋七月,伊飡于老與倭人戰沙道,乘風縱火焚舟,賊赴水死盡。」
249年 夏四月、倭人が舒弗邯の昔于老を殺した。
「(沾解尼師今)三年,夏四月,倭人殺舒弗邯于老。」
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。一吉大谷に命じ、領兵にこれを救わせた。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。 295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。新羅王は自ら戦おうとしたが臣下に止められ、新羅軍は門を閉じ城から出なかった。食料が尽きた倭軍は撤退した。新羅軍は追撃の兵をだした。
364年 倭兵が大挙して侵入してきた。倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。さらに追撃し全滅近くまで追い込んだ。
393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。倭軍が撤退を始めると、新羅軍は騎兵二百と歩兵一千で追撃し、倭軍は大敗した。
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。 倭人「略奪!略奪!略奪!略奪!略奪!略奪!」
もしかして日本って中華文明を受け入れて文明国になるよりバイキングみたいな海賊国家になってた方が成功したんじゃね? ぶっちゃけ古代では間違いなく朝鮮の方が文明的には優れていた。ただ朝鮮半島は3つに別れて争ってたし立地的に倭を味方にすれば一気に有利になる。だから朝鮮側は下手に出るしかないし日本側は調子に乗って上から目線で貢ぎ物やら人質を要求してた。その上で民間人は上の取引なんて知らないし略奪を繰り返してた >>18
朝鮮は寒い不毛の地やけ
略奪するにも物がないんや
清国以降からセルフ焦土作戦されられるようになるし >>20
フランスとかデカチンで17cmとか
黒人もデカデカや
新モンゴロイドが極端に小さいだけやで >>19
古代朝鮮は倭人の支配地なだけや
白頭山の大噴火からモンゴルの南下とかあって
民族浄化されて
今のコリアンが住むようになっただけや
まあ今のギリシャと古代ギリシャで民族が違うみたいなもんや よくわからん2000年近く前の事に執着するのって病気では? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています