今のドラゴンズはぬるま湯(笑)

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◇渋谷真コラム・龍の背に乗って◇20日 ヤクルト1-0中日(神宮)

 柳を見殺しにし、借金は今季ワーストの24にふくらんだ。ここまでは2016年以来。つまり、この先は「ぶり」が一気に大きくなる。1995年。1月に阪神・淡路大震災で近畿地方が甚大な被害を負い、3月にはオウム真理教が地下鉄サリン事件を起こし、世の中は不安の底に沈んだ。

 柳は1歳。岡林や細川はまだ生まれてもいないこの年、初めて借金が25になったのは7月19日だった。やはり神宮のヤクルト戦で、1点及ばず24勝49敗となった。

前年の「10・8」により、急きょ続投が決まった高木監督だが、成績不振の責任を取り、6月には途中休養。
この時点ですでに徳武代行監督が指揮を執っていたが、のちに解任され、島野2軍監督が2人目の代行を務めた。
以後、借金は最大35にふくらみ、30で閉幕。立浪監督や落合ヘッド兼投手コーチとともに、この地獄を知っている人に話を聞いた。
 「(代行が)島野さんになってから、何もかも変わりました。試合のための練習が一切消えて、先発投手も調整ではなくなったんです。量も質も。もうヘトヘト。全てが来年のため。勝ち負けなんかどうでも良くなったんです」

 当時のエースだった今中慎二さんだ。なぜ2人目の代行が置かれたか。解説者席の立場のまま、次期監督が改革を始めていたからだ。もちろん誰のことかはおわかりと思う。地獄の先にも別の地獄が待っていたというわけだ。
そんな中でも今中さんは3年連続2桁に乗せる12勝を挙げ、15完投、189イニングという今の野球ではとても考えられない水準でチームを支えた。打ってもパウエルが首位打者。立浪がいた。大豊もいた。つまり、投打に核はいた。その歯車をかみ合わせるのがベンチの仕事だった。

 ちなみにこれだけ負けながら、中日は5位。星野監督が復帰し、翌96年は2位に押し上げたが、97年のナゴヤドーム元年は最下位に沈む。改革が本当に実を結ぶのは、2年後(99年)である。
28年ぶりの世界など、誰も望んではいない。だけど確実に言えるのは、借金がいくつになろうとも、もはやぬるま湯体質での再建はあり得ないということだ。